後悔記

今のところ、宛てのないブログです。

六十日経った

 気がついたら、このブログも六十日目。約二ヶ月は持続できたことになる。

 めでたい。いや、それほどでもない。

 ブログは個人的な習慣化チャレンジであり、三ヶ月が一区切り、習慣として安定するのは六ヶ月という説を信じているので、油断は禁物だ。

 習慣化の過程によくある心理として、「これを習慣化したところで本当に自分に得られるものはあるのだろうか。無駄に時間を費やし日常の負荷や悩みを増やしているだけではないのか?」と根本的なところを否定する疑問が湧いてきたりもするが、習慣化のためにはそこは徹底して無視することにする。

 とりあえず、運動習慣と記録習慣だけは身につけた経験からすると「意味は六ヶ月持続できたら考えろ」と自分に言い聞かせるしかない。意味もなく成果もなく、誰にも褒められず認められず、それでもただひたすら六ヶ月は続けてみる。そして続けていることに対して、自分を認め褒める。これが個人的な習慣化のコツだった。

 六ヶ月の間に体感する、面倒くささやストレスや充実感や気づき、そういった微妙な変化を積み重ねることで、六ヶ月後の自分がどうなっているのかを観測する。それが習慣化チャレンジ。そこに向上心だの目標だの承認欲求だの余計な欲があると、だいたい満たされず挫折感ばかり味わうことになるので気をつけよう。(自分が)

 習慣化はあくまで自分の身体を慣らすための準備であり、運動不足で凝り固まった体をほぐす程度のものだ。だが、それもやらずにいきなり高いハードル越えようとすると、グキッと体を壊すのでやらなければ仕方ない。

 一応、運動は二年、行動記録は一年以上続いている。

 運動は比較的早く、太ももの間に隙間ができた。体重は六ヶ月過ぎるまで量っていなかったが、三~四キロくらいは減ったかもしれない。ウエストも三~四センチくらいは減ったが、体調や食ったものによってはすぐ戻るのでそれほど変化は感じない。ただ、二十年くらい変化のなかった下腹が三センチほど減ったのは嬉しい。まあそんなもんだ。

 行動記録の効果としては、それまでめんどうくさいと感じていた五分くらいの行動なら、以前よりはスムーズに開始できるようになった。風呂掃除や爪切りなど。ただ、ダラダラと続けてしまうゲームなどの時間を制限する効果はなかった。ちょっとした毎日の雑事に、平均してどれくらい時間をかけているのかがはっきりしたのはよかった。あと、少しでも頭を使うために、経過時間をなるべく暗算するようにしてみたら、三十年以上苦手意識をもっていた計算が、簡単なものならパッとできるようになってきたのは驚いた。やってみるものである。暗算ができなかったころとは、そもそも数字に対する認識がまったく違うことに気づく。なんだこりゃ。この認識を三十年前に身につけたかった。

 このブログを続けてみて気づいたことも、一応記しておく。

  • 一回記事を書くのに、最低でも一時間は必要になる。
  • 後回しにしていると、どんどんやる気が失せる。
  • 早めに手をつけてみても、まだ時間があると思うと集中できない。
  • 見直して推敲しているうちに、なんとなく形が見えてくる。
  • ネタは書いているうちになんとかなる。ならないときもある。
  • 感想はえらく時間とプレッシャーがかかるか、質を気にしなければ書けないこともない。
  • 書き出すのに無駄に時間がかかる。
  • すぐに脱線する。
  • 頭の中で思いついて、これは形になるかもと思ったネタほど、まとまらない。
  • 耳障りにならない程度のBGMはあった方がいい。
  • 勢いに任せて書いても、どうせ書き直して別物になる。
  • 諦めが肝心である。

 ……。正直、「こんなレベルでよくブログ続けようとか思えるな、自分」と思うけれど、仕方ない。諦めが肝心である。

金木犀が香ってた

 今日は、ジャンプを買うついでにコメダ珈琲に寄り、『ジェリコ(元祖)』を味わった。『ジェリコ(元祖)』は美味い。好きだ。レギュラーメニューになるそうで、嬉しい。コーヒーゼリーにホイップクリームを乗せただけの、ドリンクとスイーツの中間みたいな存在。かつてのドロリッチに似た満足感。レシートだけ見ると『元祖』としか書かれてなくて一瞬戸惑う。べつにコメダでなければ味わえない味というわけではないのだが、コメダや星乃は一人でゆったりと読書や考え事ができるので、精神衛生のために利用している。家で一人で考え事をしていると、ストレスで焦り気が変になりそうなときがあるからだ。

 道すがら、金木犀が香っていることに気づく。うわ、もうそんな時期かと焦る。これからどんどん涼しくなる。涼しくなると、布団も夏仕様から換えなくてはならない。めんどくさい。わたしは季節毎に寝具を取り替える作業が、とても苦手だ。ある事情から、家族に気を使ってしまうからだ。作業が苦手なのではなく、人に気を使うことが苦手なのだ。そこまで気を使わなくてもいいはずのことでも、使わずにはいられなくなるから苦手なのだ。要約すると、他人が苦手なのだ。他人とわかりあえない理不尽さが苦手であり、他人の期待感に応えるのが苦手であり、他人と円滑に交流するために費やす精神的な何かが負担で、苦手なのだ。たぶん、内向型とかいうやつだからだろう。よく知らねーけど。他人はわたしには理解できない価値観やルールを持っている。そして、力関係や性格によっては、それを当然のことのようにこっちに押しつけてくる。たいていの場合、関係性が密になるほど、その齟齬は大きくなる。だから他人とはある程度、距離を置きたい。でないと安心して生きられない。

 話が逸れた。

 わたしはコメダで考えた。「行動記録で色んな行動の経過時間を可視化したけど、一向に生活習慣が改善せんな。いや、運動だとか風呂掃除だとかは前よりスムーズに始められるようになったけど、ダラダラ続けてしまう行動を止めるとか、計画性みたいなところはまったくダメなんだよな。つーことは、費やしている時間を可視化する以外の何かが必要なんじゃねーのかな……」みたいなことを。

 その結果、計画性というのは時間の管理なのだというごく当たり前の結論に達し、そこでいう時間とは「制限時間」なのだと、これまた当たり前のことに気づいたのだった。今までのわたしは、時間の管理というものをストップウォッチで計るようなものだと考えていたが、そこにはタイマーで意図的に時間を区切る、というような意識が欠けていたのだ。

 実は昔、それはすでに少し考えていてタイマーは買ってあったのだ。だが、活用せずにわたしはストップウォッチの方ばかりを使っていた。

 ちなみにストップウォッチは、精神の安定にもいい。パソコンが不審な挙動をして、再起動に時間がかかったりすると、わたしは不安とストレスで腹を下していたものだが、ストップウォッチで経過時間を計ることによって、それが緩和された。もうストップウォッチなしでは生きていけない。

 また話が逸れた。

 しかし、タイマー的な時間制限が大事であるということに一度は気づいて、タイマーまで買ったというのにそれを使えていなかったという時点で、「時間を制限して行動を管理する」というのはどういうことなのか、具体的に落とし込めていない気もする。むしろ大切なのはそこから先だろう。

 難しい。多くの人が普通にやっていることを、この歳で今更身につけようと足掻くのはとても難しい。

 まあそんなこととか色々考えて、ジェリコ啜ってた。

深夜にあずきバーを食う

 ようやくわたしの好きな秋らしくなってきたというのに、気持ちがいまいち上向かない。やはり目の調子が悪いことが尾を引いている。目薬を処方してもらって四日ばかり経つが、コンタクトを入れてしまうと、あまり改善した感じはしない。

 心臓が痛くなろうが、頭や腹が痛くなろうが、痛みが過ぎてしまえば「喉元過ぎれば熱さを忘れる」で生活できるのだが、ものの見え方に支障があるというのは、とにかく不便だ。

 目が不調だと、やる気が出ない。本も読みにくいし、文字も書きにくいし、掃除もしづらいし、パソコンでの作業もしづらい。とくに何かするわけではなくても、常時目の不調を意識せずにはいられなくて、落ち込んだりイライラする。ゲームぐらいしかする気がしない。

 そうして落ち込んだ挙げ句、なんだか部屋が蒸し暑い気がしてきたので、わたしは自分を癒やすために深夜にあずきバーを食らいながらこの文章を打っている。冷凍庫に残っていた最後の一本であるあずきバー、美味い。

 そういえば、カロリーはいくらくらいなんだろうと調べたら、98~112くらい? まあおよそ100か。茶碗一杯分の米と同じくらい? 菓子としてはそれほど多くはないけれど、深夜に摂取したことを考えるとけして低くはない。しかも今日は食後に雪見だいふくとゴマせんべいも食べてしまっている。

 ……あ、おやつに抹茶アイスも食ってた。ダメだ。一日に三種もアイス食ってるじゃないか。ダメだ、ダメ人間だ……。

 やはりストレスはよくない。ストレスがあると、つい甘味で解消したくなる衝動に負ける。それもこれも、目が不調なのがよくない。

 はたしてこれは本当に、目薬で良くなるものなのだろうか。アレルギー性結膜炎以外に原因があったのならどうしよう。このまま一生不調だったらどうしよう。ただでさえ生きる楽しみも喜びも見いだせない人生送ってるのに、先行きが暗すぎて自分を騙し騙し生きていくことすら難しくなる。

 この前美術展に行ったときから、解説とか見えにくいなと思ってたんだ。けっこう大きめに書いてあるのに目を細めないと読めなくて、それで余計に疲れた可能性もある。目が不調だと、そういう気晴らしすら心置きなく楽しむことができない。

 考えれば考えるほど憂鬱だ。

 しかしそれでも明日はやってくるので、いつものようにジャンプを買いに行く予定です。

土曜の夜の潰し方

 ブログを始めて57日。とりあえず寝る前には記事を上げるようにしていたのだが、昨日はそれができなかった。その原因は……グラブルやってた。

 普段はあまり入らないガルーダのマルチでティアマトボルト・マグナがひょっこり落ちたのがいかんかった。その後のマルチでもSSR武器が落ちたのがいかんかった。もしかしてSSR武器落ちやすくなったのかな? あたいのようなダラダラやってる弱小騎空士もがんばれば3凸できる? と、ちょっとやる気を出してしまったのだ。

 いやー、まさか不具合として修正されちまうとは思わなかったね。ちくしょう修正される前にもう少し粘るべきだった……。

 そんなふうに、土曜の夜をいい感じに潰してました。

 

 ……反省する。さすがにクリックのしすぎで手首が痛くなっていたのはもの悲しかったし、布団に入ってからも武器編成と強化のことを考えていたのは、よくない。

靴下は大事だった

お題「起きて最初にすること」

 書こうと思っていたものがどうにもまとまらなかったので、ここはお題に頼ることにする。

 起きて最初にすること……何だろうなと考えて、二つあることに気づいた。

 「カーテンを開ける」か、「靴下を履く」かだ。

 たぶん「カーテンを開ける」は普通だろうと思うが、「靴下を履く」というのはどうなんだろう。もしかして少数派だろうか。意外にわたし以外にもいるだろうか。

 考えてみたら、わたしは家の中でも素足でいることはほとんどない。素足はなんとなく、心許ない。だから起きるとすぐに靴下を履こうとする。前後してカーテンを開ける方を優先することもあるが、顔を洗いに行く前には必ず靴下を履いている。

 なんでだろうな。足が汚れるのが嫌なのかもしれない。スリッパも履いているのだが、そのスリッパも汚れているかもしれないという意識があるのかもしれない。

  そういえば、靴がなくなって素足で外を歩かなければならなくなるという悪夢を見ることがある。あれも足が無防備になることの不安を反映しているのだろう。

 それに、頭寒足熱という言葉があるように、足が冷えると体調が悪くなるし眠れなくなるし、いいことはない。足は冷えやすいために、温かい方がいい。それもあるから靴下を履かないと落ち着かないのかもしれない。

 このお題で、意外に自分の靴下に対する優先順位高いんだな、と気づいた。

眼科へ行った+α

 九月も三分の二を過ぎ、秋分の日も差し迫る今日この頃、わたしは目の不調に情緒不安定になるのにも耐えかね、ようやく重い腰を上げて眼科へと赴くことにした。この歳になると自分の精神的なサイクルもわかっている。「病院に行かなくちゃと思っているんだけど……」と不安をぶちまけ、だいたい二週間くらい様子を見て悶々となってきたところでようやく腹を括る、という案配である。

 何事も初期不安というのが一番厄介で、ここでわたしは常に最悪の想像をしてしまう。かすり傷を負えば雑菌が入って死ぬのではないかと思うし、目が不調なら失明するかもと思うし、内臓の調子が悪ければやはり重病で死ぬのかもしれないと思う。メンタルがやばいと精神病院にぶちこまれて隔離されるところまで想像するし、家族が出かけるたびに事故や事件に巻き込まれて死ぬかもしれないと考える。

 考えながら、もちろん理性は「そんなことないだろ、考えすぎだよ」と諫めるのだが、わたしのネガティブな性根は「知ってるぞ。それは恒常性バイアスという目くらましだ。この世で生きている限り絶対はないのだから、どんな不幸がいきなり襲ってきても不思議はないのだ」と唾を吐く。

 唾を吐きつつ、「まあでも、確率的にいきなり事件や事故に遭遇する可能性は低いだろうし、病気も何の因果関係もなく悪化するものでもないから、あまり不安に溺れすぎるのもよくないな」と、反動的に精神のバランスをとるのである。我ながら鬱陶しくめんどくせー。

 で、二週間くらい鬱々としていると、今度はその鬱々から逃れたいという衝動が湧き始め、逆に楽観が復活してくる。「眼科行ったって死ぬわけじゃないし、検診がてらに行ったって損するわけじゃないんだから、行こうぜいい加減……。そりゃ医者と相性悪かったらつらいけど(昔、ずーっと俯いたままブツブツ文句言ってる眼科医に当たって嫌な思いをしたことがあり、またああいう医者に当たったらどうしようという不安がある)、ダメそうだったら他のとこ行けばいいんだしさ、軽い気持ちで行こうぜ」と、ある日、目が覚めて気持ちのセットアップができたと確信したときが、病院チャレンジのチャンスタイムだ。ここを逃すと、また気鬱が過ぎて行きたくなくなるかもしれない。

 それにしても、病院とは、なんであんなに行くのが億劫で恐ろしいものなのだろう。自分に専門知識が欠けているからだろうか。体の不調というものに対して、劣等感や自責を煽られるからだろうか。医師や受付との適切な意思疎通に疲弊するからだろうか。過去に少しでも嫌な記憶があると、それが増幅して定着しているからだろうか。知り合いや親戚が病院でこんなに大変な思いをしたという苦労話が印象に残っているからだろうか。おそらくはそのすべてが原因だろう。難儀である。

 

 そんなわけで、今日は眼科へ行って、念のために緑内障の検査もしてもらって、アレルギーで目が荒れてるとのことで目薬を処方してもらいました。

 ……結局、いつもの結膜炎だった……。ああ、うん。ガキの頃から眼科行く度に言われるんだよね……。よかった、角膜に傷がついてるとか、緑内障とかじゃなくて……。コンタクトもちゃんときれいに使ってますねって言ってもらえたし。

 

 

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 ところで今日こんなメールをはてなちゃんから戴いたのだが、三年以上放置してて最近使い始めたばかりなので……その……戸惑う。

ノートの道も遠い

 猫が鳴いている。この深夜に猫が鳴いている。

 ふとふり返ると、散らかった部屋に我に返る。

 今日は秋らしく過ごしやすかったので、ちょっとやる気を出して、ノートの片づけにチャレンジしてしまったのだ。そしてその途中で、使用済みになったノートを収納するファイルを百均で買おうと思っていたのを思い出し、運動がてらに歩いて買い物に行ったのだ。部屋にノートを散らかしたまま。

 帰ってきて、使用済みのノートは無事に収納した。買い物に行き、ちょっと気力の盛り返したわたしは、そこで片づけを再開するのではなく、なぜか日課の運動をする方にやる気を出してしまった。ノートはそのままになった。

 運動し、汗をかいたので一休みとばかりにネットを始めてしまった。そしてそのまま時間は過ぎ、飯を食い風呂に入り歯を磨き、小説を読んだりゲームをしているうちに、今に至る。

 これからノートを、しまわなければならない。

 わたしにとって「ノートを片づける」ということは、「収納する」ということではない。長らく放置してある未使用のノートに、用途を決めるということである。ノートはすべて同じ収納ケースに突っ込むことにしているのだが、突っ込んでしまうと、どのようなノートがどれくらい余っているのか忘れてしまうのである。だからわたしはノートを収納ケースの上に積んだ状態にしている。見えるように。そして「片づけなくちゃ」と思ったときに、それを部屋に拡げて用途を思案する。それがわたしにとって「ノートを片づける」という意味である。そしてそれは、ここ数年まともに達成できていない。

 溜まったノートを消費するために、わたしはいくつかの用途を編み出してきた。「食事記録」「運動記録」「行動記録」「日記」「雑記」「ゲームの攻略メモ」「読書メモ」「気になった語彙」「思考整理」「ペンの試し書き」……。

 だがそれらの用途は、買い溜めたノートを使うことには上手く当てはまらなかった。「食事記録」と「運動記録」は専用のウィークリー手帳を買うことになったし、「行動記録」は昨日買ったようなリングノート。「読書メモ」は昔買った無駄に厚いノートを使用しているので使い切る先が見えない。「日記」は書くと気持ちが落ち込むので今は書いていない。「思考整理」や「メモ」類はジャンルがバラバラなので後から分類できるようにレポート用紙や余ったコピー用紙を使い、ノートは使わなくなってしまった。

 ……こうして書いてみると、自分でも意味がわからない。

 

 実は前にちょっと自己分析してみたのだが、要するにわたしは「情報の分類と整理」というやつが物凄く苦手な人間っぽい。だから要点を整理したりまとめたり、という用途でノートを使うということが、できない。だから「記録」だけなら毎日淡々とつづけられるし、習慣化もできる。

 文章書くのが苦手、というのもここからきているのではないかと考えた。思考を吐き出すように書き散らすことはできても、要点を整理して再構成するという作業が、どうにもできない。買い物で迷いまくるのも同じだ。選択に関わる要素が複数になると、混乱して決断できなくなる。

 そんな苦手意識があるからこそ、なんとか克服したいと考え、用途をひり出しノートを使い習慣化したい……と思い込んでしまうのだが、その思考回路自体が何かとても間違えているような気がしなくもない。