後悔記

今のところ、宛てのないブログです。

うなぎとハンバーグ

 よく通り過ぎる道にうなぎ屋があり、香ばしい煙が漂っている。テイクアウトもあるためか、店の外にも客が並んでいることが多い。

 うなぎ、うなぎかー。うなぎといえば昨今、絶滅を懸念されていることでも有名だ。専門店はともかく、コンビニやファミレスなどでの安価な大量消費はそろそろ控えた方がよいのではないか、という意見もよく目にするようになって数年経つ。個人的観測範囲の話ですけど。

 まあ、そんなしょっちゅう食べたいものでもないし、好物でもないし、正直どこがそんなに美味いのか実感できたことがない。父はわりと好きでよく食べていたから、家族で食っていたけれど。まあ、スーパーで売られているようなのを。

 正直、脂ぎってて焦げ臭いという印象が強く、細かい骨が喉に刺さったときは本当にビビった。親戚の葬儀で出た弁当のうなぎに、「うぉぉ固くて噛み切れない。なるほど、ゴムのようなうなぎって本当に実在したんだ!」と感心したり、あまり良い思い出はない。

 しかし世間一般では、うなぎというのは高級で美味い食い物ということになっているその落差に、わたしは「つまり、高級な専門店で食えば違うってだけの話よな?」と捻くれていた。

 このまま順調にうなぎが絶滅していくなら、本当に美味いといううなぎの味は知らないまま死ぬことになるのだろう。まあ、それでも全然困らないけど。単に、わたしの中の「この世のどこかに存在するという『美味いうなぎ』」という存在が、完全に夢想になるというだけだ。個人的には。

 で、うなぎの危機的状況とかいうやつを、食事の席で話したりもするのだが、それでも土用の丑の日にうなぎを食うんですね、家族は。で、わたしだけハンバーグになっている。なんかね、伝わらなかった。「うなぎ、もうすぐ絶滅するかもしれないんだって」という話をして、まあそれでも食うか食わないかは個人が判断するしかないので、べつに「我が家でもうなぎを食すのは禁止にしましょう」とか主張したかったわけではないんだけど、もしかして単に「わたしはうなぎを食べたくない」アピールだと受け止められたのかもしれないと考えると、なんか釈然としない。

 こういう、こういうとこだよね。なんかコミュニケーションできねぇな我が家、て痛感するのは。自分の言い方が悪かったのか、相手の受け止め方がおかしいのかすらわからない。

 いや、もうハンバーグでいいんだけどね、うなぎより好物だし。

この部屋には棚が必要だ

 ちょっと内容が濃いめの小説を一気に読んでしまい、疲れた。PCで読んでたから余計にだろうか。長かった。借りてきた本はまだ読んでない。

 今日食べようと思っていたパスタは昨夜身内に食われたので、冷凍のチヂミと唐揚げを食ったのだった。そこで唐揚げの袋等、肉系の保存食品がなぜかせまいチルドの引き出しにぎゅうぎゅうに詰め込まれているのも身内の仕業だと判明して、げんなりした。まあそんなこったろーと思ってたけど。奴は家の中のあちこちを、自分ルールで軒並み使いづらくすることに凝っていて、その浸食を日々拡散しているのでつらい。

 もういい。このことについては考えたくない。気が狂う。

 楽しいことを考えたい。しかし、楽しいことなど何もない。自分で探すしかないのだが、だいたい後からしんどくなる。本を読むのと同じで、義務になってきて疲れるのだ。不思議だ。娯楽のために摂取しているはずのものまで、そこから何も得られないことに鬱々としてしまう。やはり、生産的なことをしないと自尊心は回復しないのだろうか。

 自尊心を回復にはいくつか方法はあるが、その衝動に突き動かされるあまり、間違ったものに依存してしまうことがあるのも知っている。ソシャゲとか、ガチャとか、ネットでの罵り合いとかな。ギャンブルも酒も、対人関係も、過食拒食も、とにかく人はストレスからの回避行動によって依存に陥りやすいらしい。

 人って存外、単純でかつ壊れやすいものよなー、と呆れる。しかしそれが適応力というものなのかもしれないし、依存も一種の適応だったりしたらどうしよう。まあ考えてもしょうがないけど。

 明日は何を食おう。考えるとそれも憂鬱になる。本を読まなくては。部屋の片づけは、片づかない理由が棚がないことにあるのが大半なので、小物をいくら右に左に動かしても定位置が決められるわけはないと諦めかけている。物が問題なのではなく、その物がいつどのように使われるのか、という手順をスムーズにするための配置が不可能であるということにわたしはずっと停滞していたのだと、最近になってやっと気づいた。やっとかよ。この前借りた小説を読んでいる最中に、急に理解した。

 本を読みながら内容に集中できず空回り、しかし刺激を受けて思考の回転だけはよくなっている状態になると、わたしは覚醒したように「あ、わかった」となることがある。つまり、わたしの頭をまともに働かせるには、そうして刺激になるような外部情報を常に入れていなければならない。インプットは大事、というやつだろうか。しかし役に立つのはインプットした内容ではなく、頭を働かせるきっかけになる情報の断片だけなので、インプットはされないんだけど。つらい。回りくどくてめんどくさい。

 しかし棚は買えていない。六年間も悩みつづけて買えてないのだ。買える気がしない。そもそも、どこでどうやって選べばいいのかがわからない。ネットで調べたりすると、情報が多すぎて意思決定がストレスになり気持ち悪くなってくるのだ。

 棚。うん、棚なー。必要なんだけど。

パスタ返せ

 夜中にどうも飯の匂いが漂ってくるなーと思ったら、予想通り、身内が冷凍のパスタを食ってたのでしんどい。それ、わたしが明日にでも食おうと思ってたやつなんだよね、と思っても抗議できないめんどくさい事情がある。奴はおそらく、「こっそり」食っている自認なんだよな。堂々とは食えない。だが、完全にその痕跡を隠すほどの労力も使わないので、匂いやゴミで、露骨にバレる。バレているのに体裁だけ「こっそり」風につけるのは何なんだよ。そういう安っぽい後ろめたさ、とってもイラつくんだよ。わたしは明日何を食えばいいんだ? と、ムカついてくるのだった。

 我が家のレンジもトイレの換気扇も調子悪いし。リフォームしてからどこもかしこも維持やメンテがめたくそ厄介なことになっているのを、わたしは気づいている。音も響いて筒抜けなので、耳栓しないと寝られない家になったし。

 リフォームすることになったとき、わたしはもうすぐ死ぬ感じの精神状態でいたから、とくに何も言わなかった。しかし生き延びてしまったら、まあそのツケは数年後にどっとくるだろうなぁ、とは分かっていた。しかし、わたしがわかっていることを、家族はわかっていなかったりする。そこでなんとかコミュニケーションとろうとしたこともあったけど、だいたい無駄だと理解したのでもう諦めた。無理だ。無理だよ。おれたちわかりあえない。せいぜいお茶を濁した世間話でもして、世を憂いて共感を示したりして、そういう当たり障りのない表層的な付き合いしかできん関係だったのだ。人としての、信頼がない。まあそんなの、もしかして大抵の人間関係にはないのかな? とは思うけど。

 ほんと明日は何食えばいいんだ。さすがに最近は「何を食えばいいのかわからない」ストレスで三十分くらい悩み続けるという馬鹿げた状態は脱してきたけれど、予定を身内が勝手に壊すので、イライラしてきた。よくない。ああ、よくない。

 返せ。わたしのパスタ返せ。と、心で罵るが、さすがにちょっと虚しいなと思うので、何か美味いものでも食いに行きたい。だから、こういうのが、こういうストレスのサイクルがよくないんだよ、とわかってる。わかってるんだ……うん。

『GODZILLA 怪獣惑星』の感想

 見た。えーと、『シン・ゴジラ』は見てそこそこ楽しんだけれど、もともとそれほどゴジラに思い入れもないので、虚淵脚本でなかったら見に行かなかったと思う。

 感想に困るのは、話が終わってないからだ。聞いてない。三部作だとか聞いてない。(見終わった後、感想を話した知り合いに教えられて知った)案の定、スタッフロールの途中で起ち上がって帰っちゃう人がいるんだけど、あの人の中ではアレで終わったことになってしまっているとしたら、惨くない? と、他人事なのに心配になった。

 まあ、その続きあるなら見ます。その気はあります。でも「えぇー、この状態で続くのかよぉ」と、あまり肯定的でない気分にはさせられた。関係ないかもしれないけど、『アルドノア・ゼロ』の引っ張り方とか、まったく納得してなかった派なので。

 でも、ハルオが可愛かったら許す。最初はいかにもな感じの白い神官が気になって見ていたところあるけれど、気がついたら、なんかハルオが不憫で健気に見えてきたので、わたしには合ってたんだろう。そう。そういう嗅覚で楽しむしかなかった。だって話はこれからだから……。

 で、まあ見ていて、状況の閉塞感であるとか、ハルオのキャラクターとか、そこらへんは概ね満足なんですよ。なんというかこう、勝手に言えば、一種の保守的なロマンであっても、「人間の尊厳」を信じようとしているキャラとか作品は、嫌いになれない。しかし、それがゴジラにマッチしているかどうかはわからん。ゴジラ作品、ほとんど見てないけど、なんかアレは日常破壊のカタルシスなんだなぁと思っていたので。この『GODZILLA 怪獣惑星』は、もう最初っからドのつく非日常だということ自体に「あれー、ゴジラなのになー」という感はあるんですよ、自分にすら。

 まあ、暴力の塊であるような暴走的な巨大生物に、圧倒されて追いつめられて、そのなかで人間が奮起して、でもやっぱり儚く散っていく、みたいな諸々(現実と混同してはいけない類のヒロイズム)はちゃんと堪能できた。個人的には。(しかしほんと他人がどう感じでどう思うかは知らん、わからん)

 しかし、やっぱりどうにもなー、と思ってしまうのはべつにこの作品に限らずなんだけど、組織の上層部が軒並みオッサンで、女性は皆無で、いても添え物のようなヒロインとか、どこか古臭いのは見ていて白けた。何か意図的に、設定的にそうなっているとしても、べつにそれは面白く見られない。まあ、たぶん女性キャラは次回作以降増えるんだろうけど、そこも正直不安材料ではある。

 だってさー、二万年後の人類が、いかにも記号的なアニメ美少女だったりしたら、わりと世界観ひっくり返っちゃうんだよなぁ、悪い意味で。うっ、『翠星のガルガンティア』を思い出す……すまん、コレもちょっと自分の中での評価が……惜しくて、つらい。

 そんな感じで、まあ人間を信じて頑張っているハルオの試練(ひどいめにあう)を見守りたい気持ちで続編を待とうと思う。以上。

(この手の感想をまともに書こうとしてもグダグダになるので、もう取り繕うのを諦めた)

ぐるぐるが抜けらんねぇ

 気晴らしでちょっと調べていた娯楽に、案の定どっぷりと時間を忘れて、気がついたら数時間経っていたといういつものパターンである。残念。

 しかし気晴らしは必要なのだ。でないと、憂鬱のネタに自分から頭突っ込んで悩んで、やはり気がついたら時間が過ぎ去っているということになるので。ならば、せめて楽しいことを探していた方が精神的に良い。良いはずなのだ。

 そういう自己弁護をしながら生きるんですよ人間て奴は。

 新味のある娯楽というものは良いもので、それにまつわる好みの偏りもまだ自覚していないし、ネガティヴな情報も知らんから心が安らかでいられる。だいたい、物事も人間も、慣れてくると見たくもない側面が見えてくるもので。知らないからこそ夢見ていられる、その時間はとてもとても貴重じゃないですか、とわたしは主張したい。

 体重計に乗ったら、ちょっと最近は見かけなかった数値にまで達していて、さすがにヤバいとは思ったり。いやでも、BMI的にはまだ標準なんすよ。本当っすよ。と、自分の脳をなだめつつ。問題は、これからどこまで増えるのか、ということだった。

 運動はしているが、甘味も食っているので、要はそのバランスの結果なのか。それとも、単に年月によって体の調子が変わってきたのか。そんなの考えたってわかるわけないので、数字のことは忘れよう。考えてたって悩んだって、体重は減らない。まあ、運動しても減らないんだけど食うもの食っているかぎりは。

 なんだか同じようなライフサイクルをぐるぐるぐるぐるしている、という自覚はあるし、自覚があるからこそ新規な情報や娯楽を求めるのだが、それすらもだいたい同じ周回軌道になってませんかねー、と自問する。が、自問したって変わらない。変わるときはいつだって、気がついたら変わっていた、という結果が出たときで、それまでは無意識不可視の諸々な歳月の堆積した結果に他ならない、っつーわけですよ。

 とはいえ、変えるためにも後悔や悩みは必要で、それすら失ってしまったらまともに舵がとれないだろうと思えるから、まあ、色々やっていく。

『はいからさんが通る』の感想

 えー、『はいからさんが通る(前編)』を見ました。

 最初、キャラクターデザインが原作とかなり離れた印象なので「うーん」と思っていたのですが、CMで動いているのを見るとなかなか悪くないなと思い、あと早見沙織さんの声と主題歌がほんと良くてですね……それで見に行くことにしました。

 というか、上映回数がかなり少なくなってたので、今行っとかんと見逃すなと思った。

 

f:id:mkhs:20171121005637p:plain

 

 特典は蘭丸だった。わーいやったー。蘭丸かわいい。こちとら男の娘なんて言葉ができる前から女装美少年好きやってたんじゃ。

 

 結論から言うと、見てよかった。話がかなり圧縮されていることもあってかテンポもよく、見ている間退屈せずに、懐かしくて終始ニコニコできた。その分ちょっと唐突に思えるところもあるにはあるけれど、個人的には許容範囲です。原作知ってるなら自分で補完できるんで問題ないけど、知らない人が見てどうなのかはわからない。

 まあ、劇場で見る価値のあるスケール感とか映像の迫力みたいなのはないけれど、『はいからさん』のダイジェストアニメとしては悪くなかった、ほんと。たまに少尉の作画怪しくない? とか、吉次さんはもう少し大人っぽいデザインの方がよかったなとか思ったけど、蘭丸はほんとかわいかったし。(すいません、思い入れと私情による感想しかありません)

 なにより紅緒さんが今風でもちゃんと紅緒さんだと思えれば、もういいんじゃないかと。そういうヒロイン力で、わたしは納得させられたのだった。いや、ほんと早見さんのお声がよくて……。(だから好みの話しかしてない)

 記憶力悪いので好きだった作品の記憶もポロポロ抜けてる人間なんだけど、見ながら「あー、これこれ」てなれて楽しかった。少尉こういうキャラだったっけ? とか。絵が違うから印象も違うのかな、とか。環はイメージ通りだな、とか。前の主題歌インストで入れてくれるの嬉しいなー、とか。この企画、原作ファンと若い子のどっち狙ってたのかな? とか。いやしかし、この王道路線はきちんとやれば今でもウケるはず、しかしそう思うのは自分の思い入れかもしれないし……等々、色々考えながら見てしまったけれど。

 昔やってたアニメは中途半端なところで終わってしまったし、実写映画も見たけれど消化不良ではあったので、ここは後編に期待したい。

また文について悩む

 このブログは千字前後の文章を、だいたい一時間くらいで書いている。といっても、もちろんその時間の大半は、「何を書けばいいのか」「どうやってまとめるか」みたいな、ただ考えることに費やされている。

 早いと四十分くらいで書けるときもあるし、二時間くらいかかるときもある。これだけ時間にばらつきがあるのは、考えながら書いているからだ。考えてから書くというやり方は、よくわからない。なぜなら、わたしの考えはいつも混乱していてまとまらないからだ。

 文章を書くのは、難しい。と、わたしはしつこく書く。ツイッターで百四十字のSSなんてものを書ける人もいるけれど、わたしにはどうしてそんなことができるのか、意味不明だ。謎能力だ。

 では何字なら書けるのか。いや、これが書けない。字数の問題ではない。わたしには、ひとまとまりの完結した文章というものが、どういうものなのかがよくわからない。このブログの文章も、中途半端に終わっているという自覚はある。結論も主張もないし。だったら何故書いているのだろうな。いや、書けないということを書きたいというか、記録しておきたいのかもしれない。複雑である。

 

 文章には、四種類あるという。主観的な感想文と意見文。客観的な報告文と説明文。

 わたしはおそらく、意見文と説明文が苦手だ。意見文と説明文は、論理構成が必要になる。論理構成、意味がわからない。

 意見かー。「○○という問題について、どう思いますか?」みたいなのか。べつに意見がないわけじゃないけど、文章にしろと言われてもどうすればいいのか、わからない。

 説明文かー。「○○について、説明せよ」てか? あー、調べ物が必要だよなぁ。どこからどこまで説明する必要があるかにもよるなぁ。想像しただけでストレスで吐きそう。

 じゃあ感想文と報告文で書けばいいんじゃないかな、とは思うけど、そっちもべつに「得意」というわけでもないからなぁ。しかし、その得意不得意の自己分析も、自己分析だから間違っているだけかもしれんしなぁ。

 

 ……と、書いては消し書いては消し、また考えながら書き、こうしてわけのわからん文になる。