後悔記

今のところ、宛てのないブログです。

寒い三月の記憶

 今日はまた寒くなった。三月に入ったといっても、寒いときは寒い。

 夕食のときに雑談のつもりで、「まあ三月でも雪が降ることもあるみたいだからね」と言ったら、「そういえばあんたの中学校の入学式も寒くて雪が降ってたね」という話になった。

 そういえば、そんなこともあったな。昔のことはだいたい忘れているわたしだが、入学式だか卒業式だか、高校だか中学だか曖昧だったが、たしかとても寒い学校行事があったということは、記憶に残っていた。

 そうして雑談していると、父が車で送ってくれたのだが、道を間違えて別の中学校に行ってしまったんだよね、というエピソードまで連鎖的に出てきた。ああ、そうだった。それぞれ個別のエピソードとしては頭にあったのに、それが同じ日の出来事だとは繋がらなかった。我ながら信用できない記憶力だ。

 思い出してみる。たしかに、あの日は寒い三月の日だったのかもしれない。車中の居心地は悪かった。着慣れない制服、気になる父の機嫌、式に間に合うかどうか、あるいは、あまり評判のよくなかった中学校へ通うことへの不安があってか、あまりよい気分で車に乗っていなかったのはたしかだ。

 そうだ。運転していた父が道を間違え、見えてきた中学校の校舎の壁が、ピンク色だったのだ。たしか、そのはずだ。鮮やかなピンクではなく、彩度の低いピンクっぽい色、という感じだったが、父はそれを気に入ったようなことを言っていた、ように思う。

 まあ昔のことなので、多少の記憶違いはあるかもしれない。父は車に乗って、自分の気に入ったものを見ると、それを褒めて話すことがよくあった。

 雪が降ったかどうかは、覚えていない。降ったとしても、ちらつく程度だっただろう。入学式がどんな式だったかも、まったく記憶にない。まあ、そんなものだろう。楽しくもないし、学校の式なんて子どもにはただ退屈なものだ。道に迷った、季節外れに寒かった、というアクシデントがあったから記憶に残っているだけで、そうでないものは思い出せない。

 記憶を思い出すためには、やはり引き出しの取っ手というか、フックのような出来事が必要なのだろう。それが良い記憶であれば、わたしももう少しはポジティヴな人間になれたかもしれないが、やはりどうしてもネガティヴな記憶の方が鮮明なのは、ありがたくないなぁ、と思うのだった。

汁なし担々麺の辛味

 冷蔵庫の中に余っていたというだけで食べてしまった汁なし担々麺が、予想以上に辛かった。麺を茹でたあとにかけた付属のソースが、やたら赤い時点で警戒すべきだった。わたしは辛いものが苦手なのだ。

 しかし、食べてみると味は美味かったので、完食した。人気のある店の味を再現したとかいう系のやつらしい。

 食べ物の辛味にも色々とあるが、わたしが苦手なのは、唐辛子の辛味だ。唐辛子の辛さは舌をヒリヒリと痛めつけて、味がわからなくなってしまうので苦手なのだ。味がわからなくなると、もはや食べても「不味い」ではなく「口内が痛くて味がしない」という状態になる。家族は辛いものが好きなので、この状態を理解してもらうまでに時間がかかった。

 辛いものを「美味しいのに」と言われても、こちらは困るのである。美味しいも何もない。辛いと舌がやられて味がわからないんだっつーの、と何度も説明することになる。

 それでもたまに、「あ、辛いけど美味い」という料理は存在する。他の香辛料とか、味付けのバランスが肝心なのだろう。とくに中華料理は、その差が激しい。母が昔、ある有名なシェフのレシピで麻婆豆腐を作ったら、辛いけれどとても美味しかったので驚いたものだ。その麻婆豆腐は、唐辛子だけでなく花椒(ホワジャオ)を使っているのがポイントなのである。

 わたしは唐辛子は苦手だが、胡椒や山椒はむしろ好きだ。というか、胡椒はたしかにピリリと辛味を感じるが、山椒をあまり辛いと感じたことはない。そして花椒は、辛いと感じる前に、喉に刺激がくる。無防備に食べると、噎せそうになる。辛味、というものでも、口内での感じ方がまったく異なるのは面白い。

 花椒のきいた麻婆豆腐は、辛くても美味しかった。(まあ花椒だけではなく、醤の配合などもあるからだろうが)口の中に含んだだけで、喉の奥が刺激されて、ゲホゲホと咳き込みそうになるのに、それでも唐辛子のように舌が痛くなることはないので、苦手意識はない。

 そう、今日の担々麺も、たぶん花椒を使っていた。それ以外にも色々使っていそうな、濃い甘みも感じる珍しい味だった。食べ終わると、口の中はヒリヒリして水を飲まずにはいられなかったし、ズルズルと鼻水が出てきたけれど、美味しかった。

 でもわたしにはやはり辛すぎたので、次はもうちょっとマイルドなやつを食べたいと思った。もしかしたら、付け合わせの野菜が少なすぎたのかもしれない。パッケージにお薦めされていた野菜はチンゲン菜だったが、なかったので、小松菜を代用したのだ。あの味付けの濃さからしたら、もっと多くの付け合わせがあることが想定されていた商品だったのかもしれない。

 麺を茹でて、付属のソースをかければいいだけと、調理を甘く見ていたことも辛すぎた原因のひとつだろうか。

土産でカロリーオーバー

 昨日と今日と、二日連続で菓子パンを食べてしまった。よくない。

 菓子パンは安くてカロリーが高い。そのお手軽さから家族がよく買ってくることもあって、家にあればついつい食べてしまう。たまに食べるのならいいのだが、連日で食べたのがさすがに響いたのか、また体重が増えていた。

 ここ数日の運動量が減っていたことも影響しているだろう。体調管理というものは、とにかく面倒くさい日々の積み重ねがすべてだ。

 そういえば、昨日は昼食もパンだった。焼きそばパン。ついでにとチョコバーも食って、それから家族が買ってきたフォンダンショコラパンとかいうのも食べてしまったのだから、そりゃダメだ。そして今日は……白状すると、菓子パンを食ったというのに、和菓子まで食べてしまった。

 なんでも家族の言うことには、「この前食べた桜餅の皮がべちょっとしていてあまり美味しくなかったから、今度は美味しい和菓子屋さんの桜餅を食べたくなった」そうな。そこでなぜ、一人あたり二個も買ってきてしまいますか。一個は明日にとっておくとしても、なるべ早く食べないといけないと思うと、食べてしまうではないか。

 これは誘惑に屈したというより、義務感に流されたという感じだ。一応、土産として「美味しいものを家族で分けあおう」という気持ちで買ってきてくれたものは、無碍にはできないし、美味しくいただいておきたい。だから食べないわけにはいかない。

 いや、ちょっとはまあ「食べたい」という気持ちもなくはないけれど。しかし、とくに積極的に食べたいという思いはないのに、家族が買ってきたものは食べなくてはいけない気がしてしまうのは、やはり我が家のあり方というか、教育のせいなのだろうか。

 たまに、あまり好きではないものやそれほど食べたいと思えないものを、「いらないから食べて」と家族に断ることもあるのだが、やはり少し罪悪感のようなものを感じてしまうのである。

 父はわたしが子どもの頃、よく「食べ物の恨みは恐ろしい」と話していた。具体的にどういう状況で、なにが恐ろしいのかはわからなかったけれど、とにかく「だから食べ物はみんな同じ、平等にしなくてはならない」ということだった。

 平等というと一見よいことのように思えるが、そこには個人差という概念がなかった。父は、胃袋の大きさや、好きな食べ物は人によってそれぞれ違うということを、まったく聞き入れてはくれなかった。父が振る舞う、父が良いと思うものを食べてわたしたちが喜ばなかったり、食べる量が少ないと、いつも自分を否定されたかのように不機嫌になった。

 そんなわけで、「家で用意されたものは食べなくてはいけないもの」という意識が未だにあるし、大皿に盛ってある料理をみんなで分けることになると、その配分が平等かどうか、ハラハラしてしまうところが残っている。

主観と読解力について考えていた

 「読解力」とは何だろう、というネタは、気になるので目に入るたびに考えてしまう。最近ようやく、自分なりの仮説のようなものがぼんやりと浮かんできた。まあ仮説なので、与太話のようなものだけど。

 どうして読解力が身につかないのかの説として、「登場人物の『気持ち』を答えさせるような問題を出す国語教育がよくない」というものがあるけれど、わたしはこの説がずっと疑問だった。だって、けっこう解けるからね、文章読んでいれば。

 問題文に「気持ち」と書いてあるとしても、読み解くものは文章そのものであることには変わりない。たまに悪文やあまり上手くない問題はあるかもしれないが、問われているのは、あくまで文章で書いてある内容だ。

 以前ツイッターに、ある国語の問題が話題にされていたのを見たが、はっきりと文章内に「寂しい気持ちになった」と、ほぼ答えが書いてあったのだ。なのになぜか、その問いを間違う人がいて、リプ欄を見てみると、そういう人はだいたい書かれてもいないことを深読みしすぎているのである。

 わたしは思い出した。高校のとき、国語の授業で似たようなことを主張した同級生がいたのだ。その人は、教師に文章の内容として書いてある登場人物の気持ちを問われているのに、なぜか「だって、自分ならこう思う」と、個人的な体験談でもって教師に主張していた。

 わたしは、「えっ? そんなの関係ないじゃん」と思った。それは文章とも作者とも登場人物とも、もはや関係がない。『読んでいる自分の気持ちor考え』である。

 二十年以上も昔の話なのだが、わりとビックリしたのでよく覚えている。教師は一生懸命「いや、そうじゃなくてね……」と説明しようとしていたが、同級生の意見は「だって自分の経験では……」から、まったく動かなかった。

 つまり、読解ができないことは文章を読めないというだけでなく、客観性がないということなのではないか、とそのときに感じたのだ。客観性がないというのはどういうことかというと、主観を疑わない、ということである。

 人間はだいたい主観で物事を認知し、処理している。主観というのは、感情、予想、経験則、期待、願望、価値観、自己正当化、知識の有無、諸々のものを含めた個人差の激しいものだと思う。それを疑い一度白紙に戻す、という姿勢にならないと、客観的になるということはできない。つまり、自意識を意図して切り替える必要がある。

 読解力の研究をしている人が、迷惑メールのような「善良な読者自認の人からの指摘」が届くことにつらい思いをしているというツイッターの呟きを見て「ああ、そういう人、よくいるよね」と思っていたら、ほぼ同時に「スポーツ選手に対して素人ファンが上からのアドバイスを送る」件なども目に入ってきたので、そこからつい考えてしまった。

 なんというか、他人にアドバイスをしたがる人というのは、自分がお節介で余計なことをしているという自覚がないものだ。むしろ良かれと思って、善意だと思って、と主張するだろう。そのような件に対して、よく「想像力がないから人の気持ちがわからない」と評されることがある。

 しかしわたしは最近、「いや、そういう人たちは主観的な想像力が豊富すぎるから、他人の気持ちが想定できないんじゃないかな……」と思ったりするのである。「読解力を身につける」という行為、もはや国語や学校の教育ので解決するものではないかもしれない。

暖かな春の日にもゲーム

 今日も暖かく暖房いらずで過ごせたので、ああ春が近くなっているなぁと感じる日曜日だったのに、わたしは延々とグラブルをやっていた。

 いやだって、イベント中だし、キャンペーンだし、そろそろ集中して周回しトレジャー集めたり強化に勤しまないと、どん詰まりなのだ。いい加減、そろそろ共闘クエストを進めないといけないと思いつつ、性格がソロプレイ向きなので先延ばしにしていたり、マグナ自発しても救援が来ないとまだ全滅するから、泣く泣くエリクシール使って復活したり、最近ようやくメカニックのジョブを取得したけど運用がよくわからずに調べたり、めんどくなってアーカルムは放置していたり、やることが色々ありすぎて怖い。

 いかん。こんなにゲームばかりやっていては、ダメなのだ。

 二年以上マイペースプレイで、回復アイテムも殆ど消費していなかったから、やろうと思えば時間のある限り遊べてしまうのがよくない。一時間のサポートを二回発動して延々とクエスト周回というものをやっていたが、効率も悪いためか、回復アイテムはそれほど減らなかった。むしろ、運営からのプレゼントがあったので増えた。プレゼントボックスは強化武器が溜まりつづけ、それをちんたらと消費する作業だけでも、一時間二時間と過ぎていく。(強化しなければいけない武器はあるので、売り払うこともできない)イベントのボックス1箱分も、これから空にしなくてはいけない。何やってるんだ。

 それでも、グラブルはまだマシなのだ。それ以前にやっていたソシャゲなど、画面そのものが使いにくく通信も遅かったので、強化作業にどれだけ時間をかけていたか。レベル上げ周回に、一〇分はかかるマップをグルグルさせられていたか。それらの記憶を思い出すと、あまりに快適なので、つい遊び続けてしまうというわけである。

 わたしはすっかり、この居心地のよさに慣れてしまった。もう昔のように、「流行のソシャゲとは違うものを狙いたい」という気骨のある運営のチャレンジに乗ることはできない。でかい資本という大樹の陰は過ごしやすい。

 やる気のない運営が不具合を放置しっぱなしのマイナーソシャゲにうっかりハマり、主力となってしまったので抜けるに抜けられず、人間関係にも気を使って疲弊した、あの頃には戻れない。二十四時間戦争とか、ふざけた遊びにうっかり盛り上がって、開始時間の早朝に起きて負け戦にポチポチやってたあの頃にも……。

 どうしてわたしは一人の自由な時間をゲームに費やしてしまうのか。決まっている。よくできたゲームは、短期目標を達成する快感が間断なく設定されているからだ。

 この段階がどこかで苦痛だったり行き詰まると、わたしは飽きてやめるだろうが、今のところそんな兆しはないし、シナリオも面白くなってきたので、「いやー、やっぱでっかい資本のあるところは頼れるなぁ…」と、感心しながら、ダラダラとゲームを続けるのだった。

苺餡と道明寺

 家の戸棚にあったお菓子をよく確かめずに食べてみたら、苺味の餡が入った饅頭だった。苺饅頭、初めての味である。

 苺大福なら何度か食べたことはあるが、あれは大福のなかにフレッシュな苺が包まれているという菓子だ。餡子のねっとりとした濃い甘みと、苺のみずみずしい酸味が口の中であわさるのが美味しい。

 しかし、苺餡というのは……いうのは、正直微妙であった。

 いや、けして不味くはない。苺のイメージを押し出した赤いパッケージに恥じることなく、餡もピンクがかっていて、苺の風味もあった。苺味のチョコなら昔からあるのだし、苺味の餡があったって悪くはない。わたしはみかん味の餡子玉とか、けっこう好きだし。

 しかし餡子の主成分というか、主役は断然、豆なのである。豆にも色々ある。小豆だったり、白インゲンだったり、うぐいす豆だったり。それらとフルーツをどのように組み合わせるか考えると、けっこう奥が深くなりそうだ。

 しかし、苺餡……ほのかに苺の風味香る、甘酸っぱい餡子。うーん、うーん……。正直、この饅頭のみの感想を言えば、次回はもう食べなくていいかな、と思った。

 そして今日はひな祭りだったので、道明寺を食べた。家族がスーパーで買ってきたものだが、関東風の桜餅と、関西風桜餅である道明寺が、二個ずつ入っていた。

 わたしが子どもの頃は、関東風の桜餅しか食べたことがなかった。調べてみたら、そっちは「長命寺」と呼ぶのだそうで。知らなかった、へー。

 どちらも塩漬けの桜の葉が巻いてある。昔はこの葉っぱが好きではなくて残していたけれど、大人になってからは塩気や風味があって良いな、と気にせず食べるようになった。セロリと同じである。子どもの頃はなんとなく苦手なイメージを持っていたし好きではなかったが、食べてみると「あれ、意外にいけるな」と認識を改めることになった。

 道明寺は、お米の食感が残っているところが好きで、長命寺と道明寺の二択でどっちかにするとすれば、ほぼ道明寺を選ぶようになった。餡子は、ふつうの餡子であり、やはり苺餡よりも口に入れてしっくりくる。

 昔は近所の和菓子屋さんで桜餅を買っていたが、その店ももうなくなってしまった。寂しい時代の流れである。その代わり、子どもの頃には見当たらなかった道明寺を食べ、たまには苺餡なんて変わり種も食べられるようになったのだ。

七段飾りの憂い

今週のお題「ひな祭り」

 ひな祭りといえば、ひな人形。お内裏様にお雛様、三人官女に五人囃子、右近の橘に左近の櫻――という具合に、我が家にもあったのです、七段飾りという大層なやつが。

 段は金属製の重くて大きいもので、組み立ても一人ではできない。ひな祭りが近くなると、家族で組み立てていた。人形も一体一体保護用の紙に包まれているので、それを丁寧に外し、説明書を眺め、それぞれの小道具を持たせたりして台の定位置に座らせた。菱餅にひなあられも飾り、ぼんぼりも点けた。なかなか本格的だったのだ。

 七段飾りが完成すると、さすがに見栄えはするというか迫力はあり、一仕事終えた達成感もあった。それほど広くはないスペースに、わりと強引にセットした感はあったけれど、なかなか立派なものだった。

 そうして飾って眺めて「ひな祭りだねぇ」で済めば、我が家のひな祭りは平和でよい思い出になったのだろう。父のイベント好きというか、季節行事、家族行事というものに対する思い入れさえなければ。

 とくに苦痛だったのは、写真撮影だ。子どもの頃、父はそうした行事のときに仰々しく写真を撮りたがった。わたしたちは撮影のためにわざわざ着替え、父に人格を否定されるような文句を色々言われながら笑顔をつくり、その時間を耐えた。父は自分の思い通りにならないとすぐに怒り不機嫌になる人で、その感情の振り幅に、わたしは戦々恐々としていた。なにしろ、当人は良かれと思って「俺がこんなにしてやっているのに」という態度なので、話は通じない。ましてや幼い頃は、対処のしようもなく、その怒りや不機嫌を察しただけでぐったりと疲れてしまう。

 ひな人形を飾るのも眺めるのも、それなりに好きではあった。家族でちらし寿司を食べるのも。しかし、父の行事やイベント事に対する執着というか、「このようにあらねばならない」という拘りと理想に付き合わされることだけは苦痛で苦痛で、それは結局、わたしたちは理解しあえないまま終わった。

 大人になってからは、そのひな人形には手を付けていない。飾りもせず、物置にしまいっぱなしだ。もう我が家に飾ることもないだろうし、どのように処分すればいいのかと母と話したこともあるが、決まってはいない。