後悔記

今のところ、宛てのないブログです。

布団を変えるべきだ

 今日の暑さは、またきつかった。暑さとノミに刺されたところの痒みでうまく眠れなかったからだろうか、日中は怠くて仕方がなかった。

 冷房は朝からつけっぱなし。だけれど、ちっとも涼しさや冷たさを感じない。体が熱っぽく、ぼうっとする。やる気が出ない。かといって、べつに熱中症なわけでもない。暑い、怠い、眠い、力が入らない。ただそれだけ。

 とてもシンプルに、人は暑すぎるとダメになると感じる。

 そしてこの暑いのに、たまたま昼食に選んだスパイシーチキンバーガーなるものは、辛かった。ただでさえ辛いものは苦手なのに、口の中がホットになって困った。だいたい、食べ物についてる「スパイシー」て意味が広すぎないか? そんなことを考えてしまった。

 甘ったるいカフェオレでなんとか食べきったけど、甘いカフェオレと辛めのチキンサンドは、あまり相性がよくない食い合わせだった。おかげで、口直しにと更にピザパンを追加で食べてしまった。そっちは普通に、上手かった。

 あとはもう、水を飲む。こまめに飲む。夕方、我慢しきれずにあずきバーを食べる。夕食の後、夜になっても蒸し暑さは引かず、もうひとつアイスを食べたくなったが、アイスは一日一個までにしておこうと我慢した。えらい。

 かわりに、アクエリアスを飲む。美味い。水よりも美味い飲み物だな、と、久々に飲んだので思う。もう喉が渇いたら水でいいじゃないか、と思っていたが、やはり多少は甘くて味があるほうが美味く感じてしまう。

 それでもまだ暑い。深夜になっても暑いぞ、おい。このまま、この暑さが続いて大丈夫なんだろうか。なんだか怖くなってきた。夜中の二時を過ぎて、ようやく冷房が涼しく感じられてきた。遅い。もう寝ろよ自分。

 そしてふとベッドを見ると、掛け布団がよくないような気がしてきた。薄目の羽毛布団なのだ。べつに冬用とかじゃないし、たぶん夏でも使えるタイプだと思うんだけど、羽毛なのだ。

 もっと薄い、ガーゼの夏用掛け布団があったはずなのだが、クローゼットから出すのが億劫なのだ。しかしもう、面倒くさがってる場合じゃなくない? ようやく、そんなことに気づく。そうして頭が回っていないのは、暑さのせいだと思いたい。

 だが気力がないので、今日はまだこの羽毛布団で寝るのだった。

部屋のどこかにある携帯

 本日も実にふざけた暑さだったので、水をガブガブと飲む。当然のように冷房は朝から深夜までつけっぱなしだ。それでも日中は室内でも暑く、夜中になってようやく一息つく。風呂に入って髪を乾かしたりしている間に、また汗だくになるし。

 ちまたでも散々言われていることだとは思うが、本当に2020年の東京は無事でいられるのだろうか。それほど真剣に考えているわけではないが、ぼんやりと想像するだけで「うわぁ、大変そうだなぁ」と思ってしまう。

 そういや、アレは集まったのだろうか。なんか、メダルを廃棄する携帯やスマホやPCからリサイクルして作ろうってやつ。以前、興味本位でちょっと調べたら、だいぶ気の遠くなる話だったけど。

 自分の今使っている携帯電話は、人生で二台目、しかももう七年くらい変えていないガラケーである。ガラケー用のサービスは次々と打ち切られたので、今はほぼ純粋に通話とメールをするだけの機器と化しているが、本来はコレで音楽も聴けて、テレビも見られて、ネットもやれて、カメラにもなって、他にも色々便利機能の付いている道具のはずだったのだ。

 しかし今では、外出先で地図を調べることもできないし、バスの時刻表をチェックすることもできない。サービスが、終了したから。数年前までは、こいつで電池が熱くなるほど、ツイッターもソシャゲもやっていた、というのが今では不思議なくらいだ。

 わたしはネットやゲームに対して、多少依存的な傾向があるので、それらが使えなくなったということは、逆によかったかもしれないと思っている。だから未だにスマホにする決心がつかない。

 一台目、最初の携帯は、リサイクルに出すこともなくしまってある。なんとなく。

 思い入れがあるとか、そういうものではないけれど、なんとなく自分の生活に密着しすぎた道具というものは、処分に困る。さほどかさばる物でもないし、部屋のどこかに適当にしまいこんで、そのままだ。

 物をリサイクルに出す、というのは、それほど気軽な行動でもない。わりと、思い切りが必要だ。決心というか、決断力というか。自分には欠けがちなものが。

 というわけで、メダルの一欠片にしてやるために、わざわざ部屋の中を探してまで役所にリサイクルに持っていく気にはならないなぁ残念だけど、と思うのだった。

暑い日々

 暑い、と言うのも馬鹿らしいくらい、暑かった。

 その暑いなか歩いてコンビニに到着すると、冷房が効いていて、悔しいくらいに居心地がよい。しかし買うべきものを買ったら、また暑いなかを歩いて帰ることになる。短い距離とはいえ舐めてかかると、家へ着いた頃にはグッタリしている。

 気がついたら、買う予定のなかったミルクティーを買っていた。当然、すぐにゴクゴクと飲んだ。

 風は多少あったのに、むあっとした湿気に包まれた空気が流れてくるという感じだった。冷房をつけた部屋と、外との落差がしんどい。窓際の温度計なんか、36度とか38度とかになっている。

 こうも暑いと、もう「運動しなくちゃ……」みたいな焦りも向上心も、どこかへ飛んでいく。動きたくない。こんな時期に元気に運動とかスポーツとか、する気にならない。

 七月もまだ半ば、八月にもなっていないというのに。いや、七月でこれだけ暑いんだから、八月になったら逆にちょっと手加減してくれないかな、地球。そんな無意味なことを考える。実際、暑さが前倒し状態になって、八月に入ると暑さが和らいだような年もあったような気がするのだ。曖昧な記憶だけれど。

 ただ暑い寒いは自分一人だけの苦労ではないので、まだ連帯感があるだけマシとも言える。少なくとも、それは孤独な苦しみではない。

 テレビをつけて、天気予報を見れば、真っ赤を通り越して紫に染めあげられた日本地図と、ずらずらとおぞましい数字の並ぶ週間予報が毎日のように目に入る。もうそうなると、笑ってしまう。

 いや、これで冷房器具がない人のことを考えると、全然笑えない話ではあるのだが。

 最近は学校にもエアコンが設置されているらしいということで、まったく羨ましい。わたしの子どもの頃には、教室に冷房なんてなかった。時代が違うから、と言うこともできるけれど、それでもやはり夏場は冷房のある部屋で勉強したかった、わたしも。

 しかし学校というところは、とにかく子どもに「我慢」をさせたがる場所なのだった。そうなる理由はわからなくもないが、子どもというものは、とにかく大人に信用されない。子どもというだけで、自己中心的でわがままで愚かな生き物だと思われている。そして実際に、自己中心的で愚かだったりするのだ。わたしがそうであったように。

 とはいえ、こうも毎日暑いのは、健康にもよくない。大人だろうが子どもだろうが、休むときには休んで、涼むときには涼めるようになった方がよいに決まっている。

暑いのでアイス

 暑いので、アイスが美味くなってきた。糖分を取りすぎるのはよくないと思っていても、ついつい手が伸びてしまう。昨日は「爽」の苺ヨーグルト味を食べ、今日は「エッセルスーパーカップ」の抹茶味を食べた。

 ところでアイスと一口に言っても、種類は様々である。アイスクリームと呼びながら、実際には乳脂肪分などの割合で、アイスミルクやラクトアイスと分けられ、脂肪分などのないガリガリくんなどは、氷菓ということになる。

 わたしは乳脂肪分が少ないアイスの方が好みだ。とくに「爽」のシャリシャリ感が好きだ。もともと、クリーム系よりもフルーツなどのシャーベットの方が好きなのだ。身内はねっとりとしたクリーム感の強いアイスが好きらしい。いわゆる、リッチ系というやつだろうか。家族のなのに、食の好みは合わない。

 乳脂肪分の高いバニラアイスは、たまにコーヒーに浮かべて、コーヒーフロートにする。コーヒーの苦みがあるので、脂肪分のしつこさがちょうどよくなる、気がしている。

 明日は猛暑日になるらしい。怖い。天気予報の日本列島が、やたらケバケバしい色合いに塗りたくられているのを見るだけで、げんなりする。もはや冷房は命綱だ。明日のアイスもさぞ美味かろう。 

 そういえばここ数年、かき氷というやつをまともに食べていない。最近は、夏はカフェチェーンでもかき氷をメニューに入れているというのに、外食でわざわざ選ぶ気になれないのは、わたしのなかに「でも氷にシロップかけただけだしなぁ」という感覚があるからだ。

 子どもの頃は我が家にも、かき氷機というものがあって、ガリガリと取っ手を回して氷を削っていたものだ。出来上がった氷は、荒いし口当たりもよくはないが、自分で削って作業をしたという実感がある分、楽しく美味しいものだった。余ったシロップは、炭酸水で割るとジュースとしても消費できた。

 ネットやテレビなどを見ていると、色々と工夫されフルーツなどが盛られた、お高いかき氷の情報を得られるが、わざわざ暑い中、そうした店にまで行く気力体力はない。なかには、暑い中、行列に並んでまで食べる人々もいるらしいが、元気だなぁと感心する。

 明日はとりあえず、冷凍庫の中の「アイスの実」でも食べようかなと思う。

ノミとの戦い、再び

 その虫刺され痕を発見したときから、なんか嫌な予感はしていた。蚊に刺されたときよりも痒みがはっきりしていたし、同じところを並んで三ヶ所も刺されていた。

 わたしは思った。これはアレだ。最悪の場合、ノミの可能性がある――と。

 その可能性は、なるべく考えたくはなかった。できることなら、現実として向き合いたくはなかった。だってもう、ここ何年間もわたしはノミに刺されることのない夏を過ごしていて、あれは過去の悪夢、思い出と人生の経験値としてだけ残っていれば充分な記憶だったのだ。

 だからこれは、アレに似ているけどきっとべつの虫にたまたま刺されただけのものだ。わたしはそう思おうとした。それか、アレに刺されていたとしても、屋外。屋外で偶然に刺されてしまったのだ。そう思いたかった。

 ノミに刺されたときの腫れと痒みは、時間をおいてから酷くなる。羽音をたてて飛び回っては視界に入るような蚊とちがって、その存在になかなか気づけない。もしノミが室内――しかも、家の中のどこにいるのか分からない場合、探そうとしてもそうそう見つかるものではない。小さいし、ぴょんぴょん跳ねるし、家具などの影に潜んでいたら発見しようもない。いっそ、そうして二度と遭遇しないうちに、外に出るなり干からびてくれるなりしてくれればよいと思う。

 しかし、わたしは発見してしまったのだった。風呂に入りながら、虫に刺された痕を「うーん、やっぱり腫れて悪化してきている……」と気にしつつ、風呂から上がって部屋に戻ると、まさかと思ったやつがいた。

 洗濯して畳んだまま、箪笥にしまわずベッドの上に置きっぱなしにしていた、わたしの白いTシャツの上に、ぴょんと跳ねる黒点を見た。その瞬間ですら、わたしはまだ半信半疑で、確信はなかった。それでも、それが本当にアレだったのなら、ここで取り逃がせば数年前の悪夢が再び、ということになる。その危機感でわたしは動いた。

 今、手元には殺虫剤も何もない。目標は、ゴマ粒ほどのサイズの虫一匹。何か道具を取ろうにも、目を離した途端に見失うだろう。こうなったら、素手で挑むしかない。ほとんどヤケクソで、わたしは手を伸ばした。当然、跳ねて逃げられ、見失う。しかし床を見下ろすと、運良くわたしの勘は当たり、ノミはフローリングの上を跳ねていた。

 逃すものかと勢いつけて、指先で押しつぶす。しかし小さすぎて、指の先にも手応えがない。それでも周囲に逃げた様子もないので、とりあえず思いっきり指でグリグリする。そう、ノミはなかなか潰れない。

 確認のために、そうっと指を離す。はたして、ノミはそこにいた。しかしまだ息の根は止まっていない。まだ跳ねる。

 完全に捕らえて処分するためには、セロハンテープが欲しいところだが、それを取りに行くには、ここから移動しなければならない。確実に、指先で摘まんで捕らえておかなくては。

 幸い、指で押しつぶしていた試みが効いていたのか、ノミの動きは多少鈍くなったように見えた。しかし、それでもまだ跳ねるのだ。おそるべし、ノミの生命力。これだから嫌なんだノミとの戦いは!

 そうして何度かチャレンジし、ようやく指先で摘まみ上げることに成功すると、わたしはようやくセロハンテープを取りに移動できた。あとは慎重に逃がさないように気をつけながら、テープに虫を貼りつける。

 正直、「やってやった」と達成感があった。やりたくもない戦いだったが、とりあえずわたしは勝ったのだ。後は、これが室内に侵入した最後の、そして唯一のノミであることを祈るばかりだ。

 しかし、我が家にノミが入ったことは何度かあったのに、いつも刺されるのがわたしだけというのは、一体どういうことなのか。わたしはそんなにノミと相性がいいのか。今日運良く発見できたのも、ある意味ノミとの縁を感じてしまい、嫌な気持ちになったのだった。

メニューを眺める

 気がついたら今日も、「有意義なことが何もできなかった。やろうとしたことがやれなかった。やってみたことも上手くいかなかった。なんで生きているのかわからない」という虚無感に襲われる。

 一日の終わり、寝る前はいつも人生の反省会だ。

 実際には、そんな深刻な話ではないのだ。ちょっとしたことが上手くいかなかった。それだけで、ひどく落ち込む。同じことを何回も繰り返して上達がなく、フォローもないから、何もかもが嫌になってくるのだ。

 あと何回、わたしは同じことを繰り返すのだろう。それを考えるとゾッとして、やる気を失う。少し休めば、わたしは忘れっぽいので、再チャレンジならいっぱいできるのだ。しかし学習できないので、ずーっと同じところでつまずいて進歩がないと感じている。

 見えている壁を突破できない。ただぶち当たり砕けるだけ。そんな感じで。

 まあそんな気分になってしまったら、もう何をやっても苦しいだけで上手くはいかない。だから気分転換をして、やり過ごす必要があるのだ。しかし気分が落ち込んでいるときは、発想の転換という機能そのものが死んでいる。つまり、気分転換に「何か楽しいことを」と考えたところで、出てこない。逆さに振ってもスッカスカという状態である。

 本当は、そういう気分をやり過ごすためにも、運動というものを利用しようとしていたのに、結局「めんどうくさい」という気分には勝てなかったのだ。ここらへんの思考から自分も、健康な精神は肉体が健康になれば宿ってくれるんじゃないかな、という甘い精神論に毒されていたと見える。

 心も体も同じもので、切り離せない。連動している。だから環境を変えてしまう方が色々と手っ取り早いのだが、環境を変えるにはコストがかかる。世知辛い。コストがかかるということは、結局それもまたストレスへ直結するということだ。

 というわけで、身動きが取れない。身動きが取れないと、また脳みそが余計なことを考えだしてしんどい。この脳みそを黙らすにはどうすればいいのか。ゲームに逃避する気力もなく、本や漫画すら読む気になれない。だらだらとネットを徘徊してもイライラするだけ。

 そんなときは、食い物のことを調べる。身近にあって、明日にでもふらっと行けるような店のメニューを眺めて、その中から何が食べたいか考える。実際には、考えたものを注文することは少ないのだが、それでも「まあいつかの機会に」と思えば、いつもの同じメニューを眺めていても飽きはこない。とりあえず、思考を平和に逸らせればそれでいいのだ。

暑い日の飯に困る

 今日も暑かったが、昼に何か食べようと、蒸したキッチンで冷凍庫を開けると、そこに冷凍のオムライスがあったので温めて食べることにした。オムライスの他に冷凍のリゾットもあったが、野菜が皆無どころかタンパク質も入ってなかったので、選ばなかった。

 さすがにこの暑い日に、暑い部屋で、熱いオムライスを食う気にはなれず、わたしは冷房をつけた自室でオムライスをもしゃもしゃと食うことにした。部屋でものを食べると、なんとなく臭いが残るのが気になるので、菓子やパンくらいしか食べないことにしているのだが、冷房をつけていたためか、臭いはそれほど気にならなかった。

 冷凍オムライスは、卵の他にも肉の欠片のようなものが入っていて、よしこれでタンパク質は摂取できたぞと思い込むことにした。野菜がないが、それはもうあきらめた。暑いキッチンで、なにか野菜を用意することを考えるだけでも面倒くさい。

 暑いと、風呂を洗うのも嫌になってくるので、最近は後回しにしている。まあ、風呂は入るまでに洗えばいいのだし、給湯のスイッチを入れるのもわたしの仕事のようなものだし、一番最初に風呂に入るのもわたしだから、あまり気は使わないで済む。

 そして暑いと、アイスが美味い。今日も一本食べてしまった。練乳入りの、抹茶氷バー。甘ったるいのでべつに練乳はなくてもいいのだが、とにかくアイスを食べたい気分だったので、余計な糖分を摂取してしまう。

 あとはもう、喉が渇いたら水を飲むしかない。氷を多めに入れた、ただの水道水。いくら飲んでも罪悪感や劣等感がわかないことが素晴らしい。熱中症も怖いし、夏は水をどんどん飲んでいこうと思う。

 しかし、冷凍オムライスを食ってしまったので、明日は何を食べようか悩む。さすがに熱いリゾットは食いたくない。放置しておけば、そのうち身内が夜食に食べるだろう。たぶん、今日食べた玄米の残りがあるはずだが、それを食べるとなると、結局何かおかずは用意しなくてはならない。

 ああ、暑い日はとことん料理したくない。