後悔記

今のところ、宛てのないブログです。

先のことは見えない

 一時間ほど前だろうか、そろそろブログを書こうかなとアクセスしようとしたが、できなかった。じゃあ、はてなブログの他のページはどうなんだと、ブログを表示してみたら、こんな感じだった。

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 ツイッターで検索してみたら、自分だけでなく、やはりブログの編集ページにはアクセスできなくなってるらしい。サーバーがどうこうとか、そういうことはよくわからないが、これはしょうがない。起きている間に直らなかったら、今日はお休みだな、と思った。

 一応このブログは、毎日更新を自己目標にはしているが、絶対的な義務だとまでは思っていない。なので、いつか休むことも、やめることもあるだろう。やめたところで生活には何の支障もないし、もともとそういう気楽さを前提にしなければ、ブログなんて始めようとはしなかった。

 しかし、ついさっき試しにアクセスしたら直っていた。というわけで、書いている。まあ、書けなかったこと自体をネタにしようかなと考えたので、スクショがあるのである。

 毎日、自己満足なブログばかりを書きつづけても、べつに皆勤賞がもらえるわけではない。それにもともと、子どもの頃から皆勤賞的なものを欲しがる性格でもなかった。休めるときは、休みたい。楽できるなら、楽をしたい。怒られないなら、サボりたい。基本的には、凡庸に怠惰である。

 しかし、自分がやると決めたこと、自分にもできると判断したものくらいはこなせないと、罪悪感や劣等感に襲われるのも事実だった。

 他人からの評価や賞賛は、もらえれば人並みに嬉しいし喜ぶけれど、反面重圧でもあって、そのためにやる気を出せる性格ではないのだった。他者からの評価を期待すること、期待されることは、とてもとても精神状態が乱高下して疲れることだから。わたしは、そのストレスに耐えられない。

 だからなのか、その分、自分で決めた目標だけはなんとかクリアしたくなるわけだ。だって、それ以外には、自己評価を上げて自己肯定感を育む方法がないから。

 社会に生きて生活する上で、とても不利な性質だなという自覚はある。だが、わたし以上に「この人は不利だなぁ」という人も知っているので、もう、この社会に対する適応性というものが何なのか、わからなくなってきている。

 持続することで、先があるのか、とくにないのか。未来は見えないのでわからない。最近は、二年以上続けた運動も成果がわからなくなりさぼりがちなので、そうしてなんとなくフェードアウトしていくものが大半なのかもしれない。