後悔記

今のところ、宛てのないブログです。

ホタテは刺身も美味いよ

 本日も読書をしていたが、最大の難所を乗り越えて、たいへんに疲弊している。過去に一度通った道だというのに、オチは既に知っているというのに。つらいのは推しが死んだことではなく、推し及び作品に通底するある理念が、現実の歳月によってどのように変化してしまったかということを考えずにはいられないからなのかもしれない。

 いや、そこまでは考えすぎか。だいたいわたしの脳みそは考えすぎで、だから疲れてしまうのだ。

 とりあえず最大の難所は通過した。あとは気楽に残り二割強を読破したい。そう思っていたらソシャゲのイベントも始まってしまって、まったくソシャゲは時間泥棒というやつだなと思ったが、そもそもゲームは義務ではないので、わたしはまだ数日は優先して本を読み続けるのだろうと思う。

 しかし月曜なのでジャンプは買いに行く。それがわたしのルーティンである。コンビニの店内をぐるっと回っていると、珍しく店員さんが他の客と世間話をしているのが聞こえてきた。会話の内容から、何か大きな話題、とくに災害に関係するようなものがあったのかな、とぼんやり察する。

 わたしはテレビもネットも見ていなかったので、大阪の方で大きな地震があったことを知らなかったのだ。家に帰り、家族からその話をされてようやく知った。そしてテレビを少しの間だけ見て、また読書に戻った。

 幼い犠牲者が出た現場の光景を、突っ立ってレポートしているだけの映像がそんなに有益だったり重要性の高い報道だとは思えなかったからだ。ことさらそれを強調するということは、他に視聴者の関心や情動を煽るネタがないということだろう、と判断する。

 夕飯は揚げ物だったので、なんとなく胃腸の様子を気にして、炭水化物を抜くことにした。海老フライとホタテフライ。ホタテは生食用のものを揚げたものだから、中が半生でも大丈夫だという説明付きだった。たぶん、説明されなくても気にせず食べたと思う。

 そう言えば昔、大学の飲み会の席に、刺身の盛り合わせがあったのだが、なぜか誰もホタテの刺身に手を付けないので、ほぼわたし一人で食ってしまったんだよな、というどーでもいいことを思い出した。みな、あまり生のホタテは食べないのだろうか、と気になったものだ。

 その飲み会は義務的に参加したもので、あまり面白くないというか、とてもつまらなかった。しかし、ホタテの刺身を食いながら、当時プレイしていたゲームの、重要なフラグをひとつ落としたせいでバッドエンドになってしまったという話で、一時的に盛り上がったような記憶の破片がある。

 当時は、何十時間とプレイ時間を要求しながら、いくつもの複雑なフラグを満たさなければバッドエンドというゲームがけっこうあって、トゥルーエンドに行きつくまでに挫折するということがよくあった。それを考えると、やはり今はソシャゲが気楽でいいなとも思う。

 小説もそうだが、長くて情報量が多くて没入すると情動がふりまわされて落ち着かないような娯楽作品に接する機会も、それを楽しめる気力も減少しているのは確かだ。付き合いつづけるには難しいけれど、でもそれはそれで嫌いではなかったし思い入れもあるし、何らかの形で残ってくれればいいけどなぁ、と思った。