後悔記

今のところ、宛てのないブログです。

メモの片づけは続く

 今年もあと一ヶ月という現実を受け止めたわけではないが、部屋の片づけをしなければならないというのはわたしの強迫観念なので、今日は溜めこんでいた手書きメモの整理をしていたのだった。いや、実は昨日からやってた。

 整理とか片づけとか言うけれど、その実態は、物を手に取りながら吟味したり色々考えたり、その考えたことをまたメモしたりしているだけ。で、その合間にたまに分類をする。分類をすると落ち着くので、だいたいそこで止まる。何ヶ月か前に大雑把なカテゴリーは決めていたので、溜まっていたものをそれに合わせてまとめるとこまではできた。だがそこから先がなかなか進まない。

 理想としては、カテゴライズしたら今度はその中身を更に内容別に分けて、要るものと要らないものに選別し、内容もまとめておきたいのだ。だが選別しようとすると、これが悩みまくってただ眺めて考えているだけで時間が過ぎていく。

 はあ……向いてない。ほんと片づけとか情報整理に向いてないわー。

 自分でも嫌になるが、やらずにはいられない。だって気になってストレスだから。

 最初はわたしの散漫な思考を整理するために始めたメモだったのに、今度は完全にそのメモ整理をどうすればいのか、みたいな思考に囚われている。これを本末転倒と言うのだ。わかっている。しかし、メモ自体はやめられない。

 じゃあ何が悪いのかというと、後で整理したりまとめたりする必要があるような、バラバラで法則性のないメモの書き方をしているからだ。と、いうことまでわたしは自覚はしているのである。賢い。いや、賢くない。

 しかし、それもわたしにはできない理由がある。バラバラで好き勝手に色んな紙切れやメモ帳やらに、そのときの気分でさっと書く、というやり方でないと書けないのだ。ちなみに、筆記具もボールペン、水性ペン、筆ペン、万年筆、と気分で変えている。その気儘さと自由さが、わたしがストレスなくメモを取るために必要な条件なのだ。今のところ。(もう少しいい方法を思いついていないか、学習が足りないだけかもしれないけど)

 しかも、そのメモの内容というのも、べつに大したことはない。たまに見返して、「あ、四年くらい前も同じことに悩んで、結局同じ結論出してる……」みたいなことを自覚するために書きためているのだ。それを何度も繰り返す。何度もだ。そのたびに「また同じこと書いてる」と気づき、自分がいかに狭い思考回路しかないかということを客観視するための作業のようなものだ。

 ……と、こうして客観視してしまうと本当につらいが、それが自分自身なのだということを理解し受け入れなければならない。残念だ。

 というわけで、たぶん明日も片づけは続く。

チャイを飲んだ

 最近、土産物としてインドのチャイをもらったので、淹れて飲んだ。要するに、スパイスの利いたミルクティーである。スパイスというのも何種類か入っているらしいが、一番分かりやすいのはシナモンだろうか。他にもカルダモンとかクローブとか入ってるらしいけど。

 もともと甘くする飲み物らしいので、もっと砂糖を入れてもよかった。日頃からコーヒーに砂糖を入れまくっているので、糖分に気をつけなくちゃなー、と控えめになってしまったので物足りなかった。ちょっと勿体ない。

 飲むと本当に、体がポカポカしてくる感じがする。ふだんは冷たいものばかり飲んでいるから、たまに温かい飲み物を飲むと余計にそう感じるのだろうか。冬は温かくて甘い飲み物が美味しい。

 近年はすっかりコーヒーばかり飲むようになってしまった自分だが、コーヒーに馴染む前は、自分は紅茶党だと思っていた。「美味しい紅茶の淹れ方」みたいな情報を仕入れて、実践していたりした。まあ、ティーパックですけど。

 カップに熱湯を注いで温めて、温め用のお湯は捨てて、ティーパックを入れてそこにお湯を注ぐ。ティーパックは揺すらず、蒸らすために小皿でカップに蓋をし、二分待つ――みたいな。

 今はそこまでやらない。コーヒーも家ではほぼインスタントだし。気軽に飲めるのが一番だと思うようになった。というか、これはわたしが変わったというより、環境が変わってしまったことも大きいのだが。

 たまにドリップでコーヒーを淹れると、風味が濃くて美味いなぁ、としみじみ思う。それでも毎日する気になれないのは、洗い物とゴミが余計に出るからだ。あと、夏は暑いのであまり火を使いたくない。

 しかしチャイは土産物なので、家族に教えてもらった「美味しい方」のやり方で淹れた。小さめの鍋に100ml水を入れて沸かし、そこに砂糖を入れて溶かし、チャイのティーパックを入れる。しばらく煮出して、100mlの牛乳を入れて温める。水と牛乳の比率は適当なので、もっと牛乳が多くてもよかったかもしれない。

 たまにじっくり淹れたお茶を飲むというのは、良いものだ。心に余裕がある気がしてくる。いや、余裕があるから淹れられるのか? まあいいや。

夢の中でも暴れられない

 寝付きが悪いせいか、わたしはよく夢を見る。今日(昨日?)も、変な夢を見た。夢なのだから、変だったり意味不明だったりするのは当たり前のことなのだが、いつもとは少し違うパターンの夢だったので、記憶に残った。しかし夢は普段は忘れていることも多いから、べつにそう変わった夢でもなかったのかもしれない。それは自分自身では自覚のできないことだ。

 とにかく、暴力衝動に憑かれた夢だった。わたしは夢の中でこれが夢であると自覚し、自分がものすごく、目にする何もかもを破壊し損壊し傷つけたいという荒ぶった衝動に憑かれていると客観的に自覚していた。これは夢だ、夢だから、わたしはこの衝動を好きなだけこの夢の中で発散してよいはずなのだ。

 なぜか、そんなふうに意気込んでいた。

 はい、ゲームの時間制限有りボーナスステージ開始、みたいに、スタートしたらとにかく暴れて壊れて殺して破壊してやらなきゃ損損損、みたいな気分だった。なんでそんな夢を見ていたのかと思うと、やっぱり無意識にストレス溜まってたんだろうなー、としか思えない。それ以外に解釈しようがない。

 現実のわたしは温厚で無力な人間である。あまり感情的に怒りを発散したりできない方で、暴力どころか大声を出すのも苦手だし、怒っていることを怒っているのだと伝える能力にも欠けている。まあ、だから余計に溜まるのだろう。

 そんなわたしだ、いかに夢の中で張り切ってみたところで、暴力衝動とやらもなんかふにゃふにゃしていた。当たり散らしたいのになかなかターゲットがみつからず、衝動だけを抱えて「うがー」と移動しまくり(走っていたのか飛んでいたのか判然としない)、なぜか、目の前にあらわれた「お相撲さん」に襲いかかり転ばせ、その両足首をつかんでグルグルと回転して投げ飛ばす、みたいなことをやった。

 しかしわたしが「お相撲さん」と認識したその人型はひょろひょろと痩せていて、薄っぺらいディティールのよくわからない浴衣のようなものを着て髷を結っているというだけの存在だった。まあ、夢だな。

 投げ飛ばしたもののちっともスッキリせず、というか、モヤモヤだけが残り、「いや、何やってんだろ自分、というか、何がやりたいんだ。意味不明だ」とすら思っていた。そしたら、なんか今度はちゃんと筋肉質で強そうなレスラーが出てきて、止められた。わたしはもうやる気を失っていたので、おとなしくなった。

 このレスラーの存在を、どのように解釈するべきなのか。わたしの暴力性を窘める自制心か。夢の中ですら自由に暴力を振るうこともできない小心さに対する抑圧か。わたしは抑圧のような気がした。

 夢はその後、まったく関係のない展開になって、またとりとめのないものになっていったので、それはもう覚えていない。

待てども来ず

 今日は通販の宅配が来るはずだった。というか、昨日出荷のメールが来てたので、勝手にそう思い込んでいた。時間指定をしておいたので、わたしはずっと待っていた。待っている間、また部屋を片づけようとノートを広げたり、あちこちの埃を拭ったり、積ん読タワーを整理したり、掃除機をかけたり、飽きたら小説を読むなどしていた。

 指定した時間を過ぎても来ないと、わたしは不安になり落ち着かなくなった。――もしかして、なんか事故った? もしそうなら慣れてないから困る。自分、問い合わせとかめっちゃ苦手で情緒不安定になってくる人間なんだけど。そんな人間はリスクのある通販なんかするなってか? いや、誰もそんなこと言ってないし被害妄想やめよう、うん。それに時間だってちょっと遅れているだけかもしれないし、最近は宅配業者も大変だっていうじゃん。信じて待とう。

 そう自分に言い聞かせ、というか、あまり実のない自問自答で情緒コントロールを試み、結局片づけは捗らなかった。そんなもんだ。

 そしてようやく、「あ、メールが来たからって確実に翌日届くとは限らないやんけ、メール見直そ…」と、状況を確認し、たぶん普通に明日来るよな、と落ち着いた。

 わたしは達成されていない予定があるということに、とってもそわそわして不安になってストレスが生じるタイプで、突発的な不測の事態というものが、ものすごく苦手だ。理性では「いや大丈夫だって、大袈裟だって、被害妄想だって」と自分に言い聞かせるのだが、同時に「いや、でも、落ち着かない。不安だ。怖い。もしも……」というのを抑えられない。何度も似たようなことを経験しているのに、だ。

 なんなんだろうなー。性格かなー、それとも病気とか障害かなー。気質かなー。みたいなことを散々考えたこともあったが、今では「しかし、それらの状態の何が一体どう異なるというのだ。それがわかったからといって、わたしのこの現実が何か変わるのか?」と、悩んでもあまり変わらないよなぁ、と諦めている。

  逆に考えれば、わたしは自分で自分に課した予定にも、達成しなければ挫折感を感じて落ち着かないという義務感が生じるので、これを利用すれば習慣化やある程度の目標達成も可能になるっぽい。が、それだけでは高めの目標はクリアできないままなので、ひとつの課題を自分に与えてしまうと、わりとしつこく何年もそのことについて悩んだり考えたりしているのだった。

 まあ明日は来るよな。来ないと困る。祈っとく。

得意料理?

今週のお題「得意料理」

 

 自分が一人で食うための料理ほど、気楽で自由なものはない。

 失敗しても、誰にも怒られないし笑われないし失望されない。雑だろうが栄養が偏っていようが文句も言われないし、味付けだってどこまでも自分好み。作って食べてから「んー、なんかひと味足りない」と思ったら、気儘に塩を振ってもよい。楽なのが一番精神的によい。そんなわけで、今日も自分用の昼飯を作って食べたのだった。

 作ったのは、スパゲティーだ。べつにスパゲティーが食べたい気分なわけでもなかったが、主食として食べられるものがそれくらいしかなかった。

 まず、麺を茹でるために鍋に水を入れ、火にかける。その間に、風呂掃除をする。掃除が終わると湯は沸騰している。適当に塩を入れる。そして麺を入れる。鍋からはみ出るので、最初は手で支えながら、湯につかって柔らかくなっていった麺を菜箸でかきまぜつつ、湯に浸していく。最初から細長いスパゲティーが浸かるような大きな鍋など、用意するのも洗うのも湯を沸騰させるのも面倒なので。

 麺が浸ったら、それを茹でている間に、隣のコンロでソースを作る。適当にオリーブオイルをフライパンに入れ、火を点ける。表面にぐるっと油を回して、冷凍の牛豚挽肉をそのまま目分量で投下する。均したり混ぜたりして、適当なところでこれまた冷凍のミックスベジタブルを投下する。よしよし、これで肉と野菜と炭水化物だ、とすごく雑に満足する。

 あとは味をつければいいだけだ。その日の気分で、今日はウスターソースにした。これまたクソ適当にじゃばーと回しかける。麺が茹であがるのを待つので、一旦火を止める。

 なんとか菜箸で麺をすくい取り、茹で具合を確かめて、頃合いかなと思ったら、そのまま隣のフライパンに菜箸で移動させる。ザルで湯切りをすることもあるが、家で使っているザルは片手持ちのやつなので手で持っていなければならず、湯の入った重い鍋でそれをやるのは面倒くさい。下手すると火傷する。(文で表すのは難しいな)

 再び火を点けたフライパンでソースと麺をなじませるように混ぜつつ、「味足りなかったら困るな」と、ここで突発的に顆粒中華スープの素なんかを、軽くふりかける。胡椒を足しても良い。で、完成。

 具材は冷凍ものだけなので、ゴミも出ないし洗い物も少ない。その満足感も手伝ってか、美味かった。

 こういう料理なら、一応得意だ。

コンビニで飯を選ぶ難しさ

 今日はファミマで「お好み焼き肉玉そば」というものを買って食べたのだが、正直、お好み焼きではなかったように思う。表面には、なんか薄い卵焼きのようなものが被せてあって、その下に焼きそばが見える。しかし実際に食べてみると、焼きそばの下にはキャベツで底上げしてあって、豚肉が紛れているという食い物だった。で、なんか底に薄っぺらい生地を焼いたものが、ちょっとある。

 べつに味に不満はないけれど、奇妙な構造をした惣菜だな、と思った。卵焼きに包まれた焼きそばが、こんもりしているように演出したかったがために、お好み焼きを構成している素材をバラバラにして組み込んだ、という感じ。口の中でお好み焼き+焼きそばになればええんじゃろ、という感じ。

 まあ、いいけどさコンビニ弁当だから。しかしお好み焼きと言われると、やっぱりしっくりこない。

 底にあった薄っぺらく偏った生地、何か間違って入っていたものかと思ったけれど、これがかろうじて「お好み焼き」と言い張る根拠になっているのか、と覚ったときの、肩すかし感。いや、ならもう「肉玉そば」でよいのでは、と思ってしまった。この世には色々と不思議な商品がある。

 「抹茶もちあんぱん」というのも不思議な食い物だった。正直、あまり抹茶感はない。無理すんな。公式を見ると「白いパン生地に、宇治抹茶入りのお餅のような生地を折り込み、宇治抹茶使用のあんを包み焼き上げたパンです」とあるが、その、無理すんな。

 表面のパン生地に粉がまぶしてあるので、気をつけないと汚れる。食感はたしかにもちっとしているけど、粉っぽいせいか微妙な風味が加わってしまい、あまり好みではなかった。ああ、素直にチョコ系の菓子パンでも買えばよかった。

 コンビニで飯を選ぶのも難しい。欲しいものが常にあるとは限らないし、新商品が目に入ればそれはそれで気になるし。だからいつも二十分くらい迷ってしまうのだな。

読破できなかったはなし

 わたしは読み始めた本とか小説は、とりあえず最後まで読みきりたい派である。しかし母は、「読んでみて合わない面白くないと思ったら読むのをやめる」派らしい。映画鑑賞にしても、わざわざお金を払っているにもかかわらず、途中でつまらないと思ったら出ていくという人もいるそうだし、なるほど人それぞれだなぁと思う。

 しかし、今日読んでみようとしたネットの小説は、途中で諦めることになった。内容が我慢できないほどつまらなかったわけでも、何か不快な要素があったわけでもない。アマチュアが趣味で書いている作品なので、完成度とか文章力とかいうものもそれほど求めているつもりはなかった。が、読んでいてどうにも集中できない、つらい、という理由を考えてみたら、いわゆる「視点」が多すぎたのかな、と気づいた。

 「視点の混在」問題。知ってはいるが、読み手としてはそれほど気になる要素ではないだろうと思っていた。

 小説技法的な説では、初心者には一人称か三人称一元視点をお勧めされる傾向がある。多元視点とか神視点とかいうやつは書くのも難しいし、海外文学ではよくあるけど、日本ではあまりウケないから――らしい。

 昔好きで読んでいた作家はけっこう神視点使ってたので、今更「禁じ手」とされるのにピンときてなかったのだが、そりゃまあ上手い人が書けばどのようにも書けるというだけで、これから小説を書きたいという初心者にはお勧めはしませんよ、というのはその作家も書いてたので、まあそうなんだろう。

 しかし、それで視点が多少入り交じったり増えたからといって、物語の読解に支障があるほど混乱するものはそれほど見たことがないし、アマチュアが趣味で書いているものにしても、ある程度読み手の高評価を得ている作品なら、読破できないことはないだろう、と思ってたのだが……。

 それがけっこうな長編なのもいくなかった。半分も読まずに、心が折れた。せめてもう少し短かければ読みきれたと思うのだが。

 今、わたしはそういう軽い挫折感を味わっている。読み始めた物語に最後まで付き合えないのは、やはりどこか中途半端で虚しい。しかし、読み切るのにどれほどの時間がかかるか想像すると、悪いがだったらもうちょっと面白いものに時間を割きたいなぁ、と感じてしまった。そうなると、自分を誤魔化してまで読みつづけるというのも欺瞞というか、作品にも失礼な気もするし。

 で、その作品がそれほど長くなってしまったのも、もしかして多視点の多様しすぎなのではないだろうかと考えた。これは作品にケチをつけたいのではなく、自分が読み切れなかったことへ対する分析なのだが。

 視点が増えるということは、作品の情報量が増えるということだ。書き手はその分、書きたいものを作品にぶち込めるが、読んでいる方は順次それを読解して共感したり考えたり想像したりしながら読み進めていくので、疲れるのだ。これは、わたしが色々な原因で集中力が低下していることもあると思う。

 そういえば、視点を切り替えて書くというのは、書き手にも精神的な負担がかかるというようなことを、作家自身が書いていたのを見たことがある。

 細かな視点が多少混乱したところで、読み手のわたしはそれほど気にはしないが、次から次へと視点を切り替えられてしまうのは、けっこう疲れるものなのだなぁ、とひとつ気づいたのが興味深かったのだった。