後悔記

今のところ、宛てのないブログです。

イメージを文章化したい

 ツイッターを見ていたら、イラストを描く人あるある的な「脳内イメージに画力がついていけない」というネタイラストに、「わかるー」と思いつつ同時に「いやでも、文章よりは絵の方がまだ脳内イメージを表現しやすいんだよな」と、考えてしまった。

 イラストを描くとき、最終的には「脳内イメージを再現する」ことができれば理想的ではあるが、そこまで至らなくても「脳内イメージをできるだけ具体化する」だけならば、下手でもラフでも、ある程度形にはできるものなのである、絵というやつは。問題は、それを他人が見てもイメージを共有できないということくらいで。

 たとえイメージ通りに描けなかった(画力が足りなかった)としても、一度絵という形でアウトプットできれば、そのイメージは自分の中に残り続ける。どれだけ下手な出来でも、描いた自分が後から見直せば、そのときの自分がどういうものを描きたかったのかは、だいたい思い出せるのである。

 しかし、文章では同じことはなかなかできない。そこにいつも悩んでいる。

 「なんとなく、こういう感じのものが書きたい」というイメージが頭にあっても、それを具体的に、どのような文章で残しておけば、後からでも自分の脳内イメージが再現できるのかが、わからない。

 もやっとした、ぼんやりとした、抽象的な「イメージ」を的確に言語化するということは、難しい。絵を描くのとはまったく違う能力が必要になるのだな、と感じる。

 どんなにイメージやらアイデアのようなものを文として書きとどめておこうとメモを残しておいたりしても、後から自分で見て、思い出せない。そういうことが何度もあると、落ち込む。

 具体的な事実や詳細を文章にするというのは、まだやりやすい。だが、まだはっきりと形になっていないもの、イメージの抽出というやつは、文章で表現をしようとすると、とてもとても難易度が高いと感じる。

 まったく不可能、というわけではない。たまになら、自分でも的確に表現できて、文章化できたぞと思えるときもある。けれどそれは、たまたま運良く、調子がよかったからそれができたという感覚でしかない。絵も感覚的なところはあるが、それでも「髪型はイメージ通り描けたな」とか「服の皺がいまいちだな」とか、出来不出来のチェックポイントが、文章表現よりはわかりやすい。

 べつに上手い文章を書きたいと望んでいるわけではない。ぼんやりとした自分のイメージを、自分で忘れることのないように文章化する技術というのは、一体どういうものなのだろう、と、つい考えてしまっただけなのだ。当然、答えはわからない。

設定温度は大事

 ここ数日、本当に「暑い」以外のネタがない。「暑い」という感覚と感情が生活を支配している。深夜二時を過ぎて、ようやく室温が二十七度になるのを確認する。氷水を飲んでいるけれど、水道水を凍らせた氷は、味がまずい。冷蔵庫にはアクエリアスがあったけど、ガブガブ飲んでいるとすぐになくなってしまう。

 今日も熱気の充満した台所で料理する気力はなく、なんとか冷凍庫から、冷凍のピザロール的なものを発見して、それを昼食とした。さすがにそれだけでは足りない気もしたので、手軽に腹を満たせそうなバームクーヘンも追加する。一応、野菜成分も摂取しなくてはとトマトジュースも一杯付けて。

 家族が帰ってきて、ようやくリビングの冷房を付ける。扇風機も同時に回しているというのに、異様に蒸し暑い。おかしい、こっちのエアコンはわたしの部屋エアコンなどよりずっと新しく、性能もいいはずなのに……と思ったら単純なことで、そもそもの設定温度が高めだったのだ。

 母曰く「面倒くさくてそのままだった」わたしはガックリとした。この連日の猛暑、暑いと思ったら、ふつう設定温度を下げないのか? と。わざわざ扇風機まで持ってきて、温風を掻き回してこの数日「暑い、暑い」とやっていたのか、と。

 わたしは飯を食うだけであまりリビングに長居をしないので、エアコンの温度管理にはまったく手を付けていなかったのだ。

 設定温度を二十八度にしたとても、べつに室温は二十八度にはならない。まして、長時間蒸されて熱気がこもっていた状態だ。体感的には三十度を超えていた。おまけにそこから続く台所は仕切りがあって、空気の循環が悪く、料理をするときは火を使うものだから、よけいに部屋の温度は高くなるのだ。

 我が家は、なんかいつもこうだ。要領が悪い。効率的でない。「面倒くさい」とか「うっかり忘れていた」とか「いつもと違うことはやりたくない」とか「なんとなくそう思い込んでいた」みたいな感じで、不具合が出る。悲しい。

 だが日常は、だいたいそんなことの繰り返しだ。器用になんてこなせない。だいたいいつも無駄なことをして、神経をすり減らして生きている。そこからちょっとだけ学んで経験値を得て、そして時間が経つと忘れてしまって、また同じ失敗をするのだ。 

暑さに思い出す憂鬱

 気がついたら七月も終盤だった。最近の猛暑で感覚が麻痺していたけれど、まだ七月だった。夏はこれからだ。

 なんとなくツイッターを眺めていると、学校のエアコン問題が色々と目に入ってくる。ちなみにわたしは、小中高と、冷房のない教室で過ごした。昔はそれでもなんとか過ごせたものだったが、当時の感覚からしたら、日中三十六度とかなかなかあり得ない数字ではあった。

 だから大学へ行くと、教室にふつうにエアコンがあるのには感動したし、あるときなどは設定温度が低すぎて、寒さに震えながら講義を受けていたこともあった。あれはみんな平気だったんだろうか、それともわたしと同じように我慢していただけだったのだろうか。今となってはわからない。

 そう、場所によっては冷房が効きすぎて、体に負担がかかることもある。昔は、夏場のスーパーマーケットなどに入ると、とくに生鮮食品売り場近くは、寒くて長時間いられないということもあった。

 わたしの部屋のエアコンは、古いせいもあるのか、あまり効きがよくない。温度計を見てみても、日中は二十七度から二十九度くらいである。それでも、部屋の外に出るとむわっとした暑さに「無理」となるので、エアコンは大事である。エアコンのない部屋の、窓際の温度計なんて、三十九度になっていた。

 夜中になると、さすがに二十五度程度には下がる。それくらい下がれば、充分に涼しく感じられる。深夜になって、ようやく生き返った心地になる。

 そして未だに、ふと考えてしまうのだ。ある時期までわたしがやっていた仕事、真夏の炎天下に長袖の作業服を着て、トラックの荷台の鉄板から反射する熱と、収拾物の悪臭に耐えながら作業していたアレを、今でも誰かはやっているのだということを。

 わたしがその作業を始めたとき、負担はそこまで酷くなかった。だが、年々現場の負担は増えていくことになったのだ。負担を負わなければ、仕事そのものがもらえないから。しわ寄せはすべて、現場の過酷さに反映された。

 その根本的な構造が変わっていない限り、やはりどこかで誰かがその役割を担うのだろう。

 それを思うと憂鬱になるし、今の自分はたまたまそういう現場から離れただけで、またそこに戻ることもあるかもしれないし、いや、それよりもっと過酷になっていくのかもしれないとも考えたりしている。

夢の街

 久々に記憶に残る夢を見た。

 わたしは外に出かけていた。家からあまり遠くないところだ。ちょっと大きな道をまっすぐに南の方角に進んでいくと、そこにはわたしの見知らぬ街があった。街は栄えていて、色々な施設やお店が並んでいた。とても華やかだ。

 「自分の生活圏内に、こんな楽しそうな場所があったなんて知らなかった」と、わたしは夢の中で得をしたような気分になった。それまで、靴もなく裸足で路上を歩き続けていたことも忘れて。

 その見知らぬ街で、わたしはちょっとワクワクしながら「せっかく来たんだし、何か美味しいものを食べよう」と思った。夢の中でも食欲を忘れない。そしてなぜか、わたしはその街に、人気のスイーツ行列店があることを知っていた。なんとなく、それはかき氷だったような気がするが、記憶は曖昧だ。

 しかし行ってみると、売っていたのはかき氷ではなかった。それに、すごい行列だ。何を売っているのかと見てみると、スイーツ専門店というわけではなく、軽食と甘味と両方やっている店という感じだった。

 ところがそこに並んでいるのは、見たこともない変な菓子ばかりなのだ。見た目はシンプルで、味の想像もつかない。半透明な、麺のように細長いものや、丸い餅のようなものがあるが、それが「何」なのかわからない。原材料も不明だ。名前もすべて、聞いたことのない造語のようだ。

 こんなに人が並んでいるのだからその価値はあるのだろう。せっかく来たのだし何か買っていきたい気持ちもある。だが、それが何なのか分からないまま、この行列に並ぶのも気が引ける。わたしはそんなふうに思った。

 あとから考えると、夢の中なのに妙に生々しい思考回路である。

 その夢は、どちらかというと平和で心地のよい印象の夢だった。ストレスや不安のない、落ち着いた世界だった。しかし、食べ物にはありつけないのだ。いつもこうだ。何かを食べようとすると、必ず何かの障害がある。行列であったり、売っているものの得体の知れなさであったり、目の前での売り切れであったり、道に迷ったり。選ぼうとしたものが、いきなり消えて別のものにすり替わっていたり。

 でも、夢の街は楽しげだった。

 時計塔のある瀟洒な駅。珍しいものが陳列されている博物館。見たこともない本がたくさん並んでいる本屋。お祭のように浮かれた賑やかな景色。見るものすべてが新鮮だった。

 美味しいものは食べられなかったけど、なんとなく目が覚めて寂しい気分になってしまった。

髪を切った

 本日はこの暑いなか、わざわざ髪を切りに行ったので、とても人間らしさが回復した気分だ。錯覚だけど。

 そして同時に、軽く落ち込む。いつものことだ。美容院へ行くというのは、自分にとっては人生修行のようなものだ。苦痛というほどの忌避感があるわけではないけれど、ある種の「そろそろ、行かねばなるまい」という覚悟を必要とする、年に一度の行事のようなものだ。

 ここ数年ほど、同じ美容院に行っていない。一昨年は、駅近の店だった。そこそこ安いし、知り合いがそこで切ったから自分もそこでいやという気持ちで選んだ。去年は、買い物に行ったついでに同行していた身内がいつも行っている美容院に、じゃあ自分も切ってもらおうかなという感じで。で、今年は、その身内の通っていた美容院がなくなり、新しく通っている美容院の割引チケットをもらったから、という理由だ。

 その前は、家の近所の美容院に三年ばかり行っていたのだが、あまり客の入りが良くないせいか店の空気が微妙になったのと、メンバーカードが返ってこなかったのでなんとなく行きづらくなった。

 最近はカットのみのお安めなサービスも充実しているなか、今日行ったお店は、そこそこお高く感じる店だった。しかし、どうせ年に一度しか切らないイベントのようなもの、割引もあるから思い切って行ってみようと思ったのだ。

 初回なので、なんかアンケートとか書くのだが、これがいつも困る。覚悟はしていたものの、場違い感があるなと不安になってくるのと同時に、いや自分だって普通に客なんだから卑屈になるのはよくないぞ、みたいな気持ちが未だにぐるぐるする。だいたい、中年にもなってそんなこじらせ具合を露呈するわけにはいかないので、平然とマイペースを装っていくしかない。

 さすがに、サービスはよかった。いや、そこまでしてもらわなくても、とすら思った。洗髪もじっくり手で洗ってくれるし(じっくりすぎて肩が凝った)、肩も揉んでもらえるし(実をいうとちょっと痛かった)、眉毛カットもしてもらえるし、ブローも驚くほどサラサラに仕上げてもらった。出来上がりにも満足している。(もともと、カットさえまともにしてもらえれば不満はない)

 しかし、店員さんたちはみんなお洒落だし、鏡に映る自分の顔はやる気がなくて間抜けだし、美容師さんとの会話は弾まないし、話をふられても曖昧に返すしかなかったりするし、やはりある程度の気力は消耗するのだ。

 身内にも「なんでわざわざこんな暑いなか行くの?」などと言われたが、暑くなってきたからこそ行くのだ。いい加減、頭をさっぱりさせたかった。

 さて来年はどうするか。同じ店に行くか、それともまた他の店にしてみるか。それは来年の気分次第である。

辛さを避けたい

 本日も絶好調に暑いので、体力的には絶不調である。

 しかも、ずっと同じ姿勢で作業をしていたせいなのか、背中が微妙に痛い。ほぐそうとして体を捻ったり、負荷をかけてみたら、ますます痛くなったので後悔した。

 一体、何をどうするのが正解だったというのだろう。医者でもないわたしにはわからない。そもそも、何が原因なのか、どうして痛いのか因果関係もよくわからないし。

 そんな感じである。あきらめて、わたしはおとなしくすることにした。

 昼飯はパンだった。家族が買ってきたパンをもしゃもしゃと食べたのであるが、何種類かあるうちの一つを、「サルサソースのパンだったか、タコス風パンだったか、店に二種類あったうちの一つだが、どちらだったかは忘れた」と説明され、わたしは食べる候補から外した。サルサとかタコスとかいう響きが、なんか辛そうだったからだ。

 この前、スパイシーチキンとかいうやつを選んで後悔したことだし、もう同じ失敗はしたくなかった。

 すると、その後「ところで、サルサのパンとタコスのパンって何が違うの?」という話題が出た。「え? サルサはソース名で、タコスは料理名なのでは?」と思ったが、実はわたしも詳しくない。

 想像ではあるが、「タコス風のパン(サルサソースを使用しているかどうかは分からないが、使用している可能性は高い)」と、「タコス風ではないが、サルサソースを用いたパン」と、二種類あったということではなかろうかと考える。

 調べてみると、市販のサルサソースには材料として、ハラペーニョが入っていた。ハラペーニョは唐辛子の一種なので、やはりなるべく辛味を避けたい自分が選ばないのは、正解だったらしい。よかった。

 そんなわけで、わたしは無事に明太ポテトのパンと、ミックスサンドイッチの幾つかを食したのだった。

 なのになぜか、夕食はカレーであった。暑い日はなるべく辛いものを食べたくない、というわたしの想いは届かなかった。仕方がないので、量を減らした。べつにカレーが嫌いなわけでも悪いわけでもないのだ。ただ、今日のような蒸し暑い日、冷房をつけていてもきつい日に、あまり元気よくカレーを食べられる気がしないというだけで。

 世の中には、暑い日にこそ熱いもの、辛いものを食べたいという人もいるようだが、わたしはそんな勢いのいい胃腸は有してないので、やっぱり熱い日はさっぱりしたものや冷えたものがいいなぁと思う。

暑い昼の飯

 今日は久々に昼に料理をしたので、気力が少しはましになっているのではないかと思いたい。

 冷凍庫を調べ、すぐに食べられるものといえば冷凍のチキンライスくらいしかなく、「あー、これは野菜もタンパク質も心許ないやつだ」と察してしまった。冷蔵庫に、ちょうど一食分の残りご飯があったことだし、ブロッコリーと冷凍挽肉を具にして炒めた。

 いつものお手軽チャーハンである。味付けにはチューブ入りの中華調味料を使ったのだが、残り少なくてあまり味がつかなかったので、結局塩をふりかけて食べることになった。

 食事には何かタンパク質がないとなぁと言うと、冷蔵庫には生ハムがあるとか言われたのだが、生ハムでどうやって一食分調理しろと? と、わたしは戸惑った。いや、工夫次第では使えなくもないのだろうか、料理のバリエーションがあまりないわたしには、生ハムといったらサラダに添えてあるイメージなのだ。

 生ハム。メロンと一緒に食べてもよいようだが、我が家ではもっぱら、キウイフルーツに乗せて食していたものだ。しかしメロンもキウイも、今家にはないし、それほど生ハムを食べたい気分でもなかった。

 昔、ハムとかベーコンとかそれっぽいものがなかったので、「同じ肉だしこれでもいいだろ」と、生ハムを刻んでチャーハンの具にしてしまったことがあるのだが、物足りないし、それほどよい組み合わせではなかった。火を通した生ハムは、薄っぺらくて風味の飛んだ、ハムらしきものにすぎなかった。

 だからわたしは、冷凍挽肉を使う。挽肉の内容が、豚でも牛でも鶏でも、構いはしない。便利だし、量の調節もしやすい。手も汚れない。

 出来上がった、少し多めの手抜きチャーハンをもりもりと食べたので、暑いとはいえ食欲は落ちていないことにホッとする。夏バテになって、まともに食事ができなくなると、ますます体力も落ちて怖いことになるからだ。

 しかし、この暑いときに、さすがに冷凍チャンポンは食べる気になれなかった。

 そう。チキンライスの他に、実は他にも一つだけ選択肢はあったのだ。それが冷凍チャンポン。「いや、ありえないだろ。こんな冷房付けてても暑い日に、熱々のチャンポンとかさすがに食べる気しないだろ」と、わたしは心で呟き、一度手にしたそれを元に戻した。

 しかし、凍ったままのチャンポンはずっしりとして冷えている。うっかり、よく冷えていて美味しそう、と思ってしまいそうになるが、これは熱々にして食べるものなのだ、と思い直した。